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心の目が開かれる」ハーレム牧師 2023年1月15日の説教

2023-02-28 13:44:14 | Weblog

「心の目が開かれる」ハーレム牧師(インドネシア・キリストの教会) 2023/1/15

(今回の投稿は東京キリストの教会YouTube動画を聞きおこしたものです)

エフェソ1:15-23

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。



皆さん一人一人を励ましたいです。今日神様が一人一人の目を開いていることを願っています。

 

何故私が今日このレッスンを話したいかと言うと、私が30年前にクリスチャンになったとき私はとても興奮していました。ものすごく献身していました。私のクリスチャン人生の最初の3週間で私の同僚が3人クリスチャンになりました。でもそれは長くは続きませんでした。数か月後には興奮ではなく重荷になりました。私の周りには神様を愛して、献身して、互いに愛し合う美しい人たちがたくさんいます。でも私は自分の人生に何かが欠けていて、ロボットのようになっていると感じていました。私は正しいことをしようとしていました。正しいことを言おうとしていました。正しい人生を生きようと一生懸命でした。でも、疲れ果てていました。皆さんもそのように感じたことはないでしょうか。

 

でもある日突然私はこの聖句を発見しました。それを皆さんに分かち合いたいです。私は何度もエフェソの手紙を読んできました。でもあるとき突然神様が私の心の目を開いてくださいました。私はとても嬉しかったです。そのときに私の神様への見方、教会への見方、人生の見方が完全に変えられました。そして決して元のハーレムになることはありませんでした。そして私はクリスチャン人生を楽しんでいます。

 

私たちは小グループを助け始めました。そして教会も同じように目が開かれるように助け始めました。神様が驚くべき方法で働いてくださっています。多くの人々が自由を手にしていく姿を目撃しています。

 

イエス・キリストは十字架にかかって私たちを自由にしてくださったのにも関わらず、私たちの文化によって私たちは何度も奴隷に戻ってしまいます。

 

私はかつてないほど御国のために燃えています。キリストの弟子としてかつてないほど働いています。でもそれは重荷を感じてではありません。私の心の目が開かれたからです。



エフェソ1:18-19

心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

 

パウロは教会に伝えました。皆さんの心の目が開かれるように。

どうしてそのように心の目が開かれたのでしょうか?

今なぜ神様があなたを招いたかということが分るようになったからです。

 

そして2つ目に話すのは今、皆さんは弟子としてどれほど豊かなもの、栄光に溢れたものを受け継いでいるのかについてです。

そして神様の絶大な力が皆さん一人一人の内にに与えられていることを知ったならば、心の目が開かれずにいられるでしょうか。

 

世の中では人々はゴールのために勤勉に働いています。人々は豊かになるために本当に勤勉に働いています。そして人は力が欲しいです。

でもパウロが言うのは、もう皆さんは持っています。

皆さんその事をホントに信じているでしょうか。

ホントにこれを信じていれば皆さんは世の中が生きるようには生きることはありません。

皆さんが朝起きるとき世の中の忙しさに没頭することはありません。

その代わりに神様の招きや豊かさ、力をエンジョイするようになります。

 

エフェソの1章から3章を時間をかけて読むと私はもうすでに天にいる者であって、ここにある全てのものを得ているということを私は知ってホントに驚かされました。

何故なら私は多くのクリスチャンが天国に行くために勤勉に働くのを見てきたからです。

でも聖書が言うのは私たちはもうすでに天国にいるんだ。

エフェソの2章では私たちは天でイエスと共に座っているんだ。

私は地上に住んでいますが、神様の目から見たときに私はすでに天に住んでいます。

だから祈るときそれは天国に行けるように祈るのではなく、天で起きていることがこの地上でも起きるように祈っています。

私は一生懸命頑張ってもっともっと天に近づけるように頑張る必要はありません。

私がこの世で良いことを行っているのは、天国に行くためではなくて、私はすでに天から来ているからです。

 

今日皆さんに二つのことをお話ししたいです。




私たちは人生の測りを変えなければいけないです。

私はかつては私が何をしているか、何を成し遂げたかによって自分を測っていました。

私が誰であるかという代りに。

だから測りが変わる必要があります。

行う 前に ある

私たちの自然なモードは「何かをする」です。そうすれば私たちは何者かになれる、そのように考えます。




だからこそエフェソの1章から3章ではキリストにおいてすでに何者であるかにフォーカスしています。

そして私たちが何者であるかということを理解して初めて、では何をして行くかに移ることができます。

私は何度もエフェソの4章から6章を読んで立派な夫になれるようにトライしてきました。子どもを苛立たせない父親になろうとしてきました。

罪を避けて、聖なる生活をするように頑張ってきましたが、私は疲れ果ててしまいました。




あるとき私は1章から3章を時間をかけて読んで、エンジョイして、そして私の心の目が開かれました。

私がキリストにおいて誰であるのかということを理解するようになりました。

すでに私がどれほど豊かで力強くて、どれほどの希望があるのかということに気がつきました。

その日から今日まで日々、神様が私をもっと愛することも、愛さなくなることもあり得ません。神様に私は愛されています。

私が何を行っていたかとしても、どんな結果があったとしても、神様が私をもっと愛することも、愛さなくなることもないと知って、そして私が誰であるかを知って、私は心から解放されて目が開かれました。

 

そして私の生き方が変わり始めました。

毎日私が何者である(BE)のかということを明確に知るところから始めました。

そして自分が何者であるかということに基づいて行動します。

自分がすることにおいて結果を得て行きます。





しかし、サタンは私たちに対して嘘を語りかけています。

創世記の3章4節から5節で、サタンは言いました。それを食べる(行う)と、目が開け(得る)て、神のようになることが出来ると。

まず行えば、あなたはそれを得ることが出来て、そしてあなたが得た結果によってあなたは何者かになることが出来る。

3章の前にすでに神様はアダムとイブを神の似姿に作ったと言いました。彼らはすでに神様の似姿に作られていました。

それは彼らが何者であるかということであって、決して変わりません。

でもサタンはそれを捻じ曲げました。

そしてその日から今日に至るまで人間は行うことによって得ることが出来て、そのことによって何者かになれるというというふうに思い込んでしまいました

世の中は行えば、得て、そして何者かになることになれると言いますが、神様はそれは逆だと教えてくれます。

まず、何者であるか、そのことによって行い、そして得て行くことが出来ます。

 

エフェソ2:8-10

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

 

私はクリスチャンになれたことを感謝しています。

私はキリストを知っていることを本当に感謝しています。

私たちは自分の行いによって救われると信じているのではありません。

私がやることによって聖なる者になれるわけではありません。

この世の始めから神様は、私たちが神の似姿に作られたとおっしゃいました。

だから私が罪を犯すとき、神様が私たちをもう一度神様の似姿に作り変えてくださいます。

この中で誰一人として自分を正しい者とすることは出来ません。

だから神様は恵みによって救ってくださるとおっしゃってます。

皆さんの信仰によって救われました。それは決して自分から出たものではありません。私たちが何をしたかによるのではありません。

神様はおっしゃいます。私があなたを作った。これは私からの贈り物だ。

あなたは私の創造物だからです。あなたは神の作品です。

神様が何かを作り出すときそれは完璧であって聖なるものです。

神様のイメージに似せて作られています。

だから私たちが誰であるかということは、神様において作られた者、キリストにおいて新たに作られた者であるからです。

 

自分が誰であるかということに基づいて善い業を行って歩むのです。

 

このことによって私の目が開かれました。何故なら私は今まで良いことを行うことによってもっとキリストのようになれると思っていたからです。

でもすでに私はキリストに属していると知ることによって、もっと善い業を行いたいというふうに動機づけられます。





このことによって私の人生の考え方が変えられました。

私は天から来たから、良いことを行っています。

天国に行くために、良いことを行っているわけではありません。

その時から、正しい人生を生きることはもっともっと簡単になりました。

なぜ人は性的な罪を避けて、貪欲を避けるべきなのでしょうか。それは私たちが何者であるかによるからです。私たちはすでに聖なる者だからです。



エフェソ5:3-5, 8

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

 

(サッカーの)ワールドカップでは世界中が日本人(サポーター)を見て驚きました。

他の人はスタジアムをめちゃくちゃ汚してから出て行くのに、日本人だけはめちゃくちゃ綺麗にして出て行きます。

彼らは高いチケット代を払って飛行機代を払って来て、掃除することでお金をもらうわけではないのに綺麗にして帰っていきます。

何人かのインドネシア人が私のところに来てなぜ日本人はこういうことをするのかと聞きます。もしかしたら何かお金を貰っているのではないかとか、やることリストとかがあってやりなさいとされているのかとか。

私が彼らに言ったのは、私は何度も日本に行っているから知っているのですが、それは彼らが何者であるかということだと。

日本人が何者であるかということに基づいているからどこに行こうが彼らは同じことをやるのだと。

 

日本に来るたびに私は高い建物を見ません。綺麗な道路をいつも見ています。

日本の方々は自分の家だけじゃなく、家の周りだとか道路を掃除しているのを見かけます。

誰に言われたわけでもなくやるのは、それが何者かに基づいているからです。

私の知る限り、日本人だけが唯一このようなことを行っている人たちです。

 

シンガポールはめちゃくちゃ奇麗です。何で奇麗なのか教えてあげましょう。それは人々にお金を払って奇麗にさせているからです。罰金の国なので、ゴミをポイ捨てすると罰金がかかるからです。罰金によって外側から動機づけられて、誰かにお金を払っているから奇麗に保たれています。

でも日本人は(自分が)何者であるかに基づいて行動しています。

もし皆さんが日本人としての強さを引き出すことが出来るのなら、そして御国の価値観に基づいて生きて行くならば、皆さんは世界中をひっくり返すことができます。

何故なら日本人は自分が何者であるかという価値に基づいて生きている人たちだからです。

インドネシアの人たちはそれを理解できないです。インドネシア人には教えないといけません。何度も教えないといけないし、警告しないといけない。何故ならインドネシア人は、自分が何者であるかに基づいて行動することを理解しないからです。

でも皆さんはすでに持っています。皆さんがこれを取り入れていくことは難しいことではありません。

皆さんがすでに持っている健康な文化の一部です。

もちろん日本には有害な文化があってそれは皆さんが捨てていかなくてはなりません。

日本人の文化のなかにはハードワークしてそれによって何かを得て行くという文化がありますが、それは手放していかなくてはならないです。

 

エフェソ1:16-17

「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」

 

パウロは絶えず神様に願っています。知恵と啓示の霊を与えてくださるように。そのことによってもっとイエスを深く知ることが出来るように。

パウロは説教をもっとたくさん聴いたからイエスを深く知ることが出来たわけではありません。もっと本を読んだからではありません。もっと頑張ったからではありません。

彼は自分が何者であるかということにフォーカスして、それをエンジョイすることに時間をとったからです。

そのことによってパウロはイエスと深く親密な関係を築くことができ、神様から知恵と啓示の霊をいただけるようになりました。

私は本を読むこととか知識を得ることに反対しているわけではありません。私は本をたくさん読みます。

でも神様が個人的に神様ご自身を示してくださるのに、なぜわざわざ他の人の情報を得なくてはいけないのでしょうか。

皆さん自身が神様からの聖霊をいただいた者として、啓示をいただいている者として、神様がどういうお方なのかを他の人たちに知らせる存在になるのではないでしょうか。

私たちがそうしないのは、神様のせいではなくて私たちの文化のせいではないでしょうか。



S「私たちの文化では、行動や達成することは休むことよりも良いことであると信じています。何かをすることは、何もしないことよりも良いことだと信じています。」



私たちの文化では、行動や達成の方が休憩よりもいい事だと教えます。何かをしていることは、何もしないよりもいいことだと教えます。だから私たちは起きた瞬間から忙しいです。

何かをいつもやっています。疲れ果ててもそこから何かをし始めます。

自分が何者であるかを忘れてしまうほどに何かで忙しくなってしまいます。



詩編23:1-3

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」

 

これが神様があなたに望んでいることだと信じていますか?

これがみなさんにとって教会にとっていいことだと信じていますか?

それとも文化の方を信じていますか?

私は何かをしなければならない、何か成し遂げないといけない。



私たちはこの聖句を読むのは好きだとしても、やっていないことかもしれないです。

 

創世記2:2-3

第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

 

安息日は何か後になって発明されたものではなく、この世界の創造の時から神様によって作られたものです。

神は六日の間働いてそして七日目に安息なさったとあります。

この「休む」とは正しい翻訳ではありません。元々のヘブライ語は、「止まる」、「止める」という意味です。

神様はべつに休む必要がありませんし、疲れることはありません。

しかし、神様はそれまでやっていた仕事を止められました。

神様が止まったのはただ疲れたから休むのではなくて世のためにここに良い目的があったからです。

動物にとって、地上にとって良い事であり、何より人にとって良いことだったからです。

これは全く私たちとは違います。

私たちは週に5日、6日一生懸命に働きます。そして疲れ果てます。そして休みます。

私たちが休むのは疲れたからです。

神様はあなたが疲れたから休んで欲しいわけではないです。燃え尽きたから休んで欲しいわけではないです。

神様がこのことを定めたのは私たちが人生のリズムをもってそのことによってリフレッシュされてそして良い働きを行えるようになっていけるためです。



出エジプト20:9-11

「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 

出エジプトの20章では、安息日を毎週持つように話しています。

神様が言うのはただ疲れたから休むのではなく、このようなリズムを持ちなさい、あらかじめ計画して止まりなさいということを教えます。それはいいことだと。

あなたが止まるとき神様があなたに新しいことを知らせてくださって、心の目が開かれてそしてもう一度働く時には新しい視野をもって行うことが出来るからです。

これはただ毎週だけじゃなくて7年ごとにやるようにとしています。

 

みなさん自身でぜひこの出エジプト2章23章10節から12節を読んでください。

 

出エジプト23:10-12

あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」

 

イスラエル人はこれに従いました。このことを分かっていたかどうかは別として。

何ででしょうか?イスラエル人は自分の国からバビロニアに捕囚になりました。

どれほどの期間だったか分かりますか?それは70年の間に渡って彼らはバビロニアで捕囚になりました。

何で40年でなくて70年だったのでしょうか?70回彼らはこれに従うべきだったのに従ってこなかったからです。

彼らは土地に必要な休みを与えませんでした。70回分やらなかったから、やらなかった分だけの70年間分をこの土地を休ませるんだと神様は言いました。

あなたがこれをやらなかったとしてもそれでもいいと神様は教えました。

何故なら神様は土地に休みが必要だという事を知っていたからです。

これは偶然だと思いますか。



イザヤ30:15

まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」

 

神様は立ち止まって静かにしていなさいと言いました。

でもあなたはそれを望まなかったと言いました。

 

これは皆さんの文化には完全に反することかもしれませんが、これはとても聖書的なことです。

私は皆さんに律法的な安息日をやれってことを言っているわけではありません。

この安息日に従うから救われるとか、天国に行けると言っていることではありません。

何故なら聖書が伝えるのは安息日は人のためであって、人が安息日のためにあるのではないという事です。

人が安息日の奴隷になって従わなくてはいけないということではありません。

私たちは律法のもとには居ません。だからといって律法に神様の知恵や原則がないということではありません。



いつ皆さんはサバティカルをとりましたか?そのような安息をとりましたか?

皆さんはサバティカルを正しく理解する必要があります。

 

S「サバティカルとは、『霊的な刷新のための休暇』です。それは、目的を持って計画的にやめる時です。安息日の目的は、私たちの生活の雑念を一掃し、神のもとで休息し、神の恵みを新たに体験できるようにすることです。」

*サバティカルは未来への投資である。

 

皆さんが教会に最も投資したいなら、ベストな方法の一つはサバティカル、安息を持つことです。

何故ならそれは教会の将来のために投資していることになるからです。

皆さんの家族の未来のために投資していることになるからです。

多くの家族が私のもとにカウンセリングに来るときに私が言うのは、ただ立ち止まりなさい、止めなさいです。

あなたは忙しすぎます。人生のルーティンばっかりにはまっています。

休むことにさえ罪悪感を持ってしまっています。

 

私がこのことを本当に理解したときに私は日常的にやっていることを完全に止める時間を持つことができるようになりました

サバティカルとは、ただ何もしないということではありません。

サバティカルとは皆さんの益のために明確な目的を持って計画的に立ち止まることです。

だから日常的なそういう障害物にわずらわされずに、立ち止まってそしてはっきりと物事をみることができるようになります。



S ”サバティカルはバケーションではありません。それは、異なる種類の仕事です。それは、リフレッシュ、再生、活力と健康(霊的、感情的、身体的)の回復のための時間です。神とより深く親密になることを意図して、より近づき、より注意深く耳を傾けるための時間なのです。読むこと、書くこと、祈りの中で格闘すること、特に、忙しさに追われる傾向との戦い、成果主義を手放す戦いなどが含まれます。”

*サバティカルとは、通常の仕事、日常、要求からの「停止」である。

 

皆さんはバケーションをとることができますが、それは必ずしもサバティカルではありません。

サバティカルとは生産的な仕事です。でもそれは異なる種類の仕事です。

それは立ち止まっていますがとても生産的なことです。

そしてその立ち止まった時間を意図的に自分の霊的な感情的な体の回復、リフレッシュに使うことができます。

そのように意図的に立ち止まるとき神様の語りかけがもっとクリアに聞こえるようになります。

そして神様をもっと親密に感じることが出来るようになって神様が自分に何を望んでいるかという事をもっと理解できるようになります。

皆さんも時間をとって祈ったり、書いたり、読んだりすることによって、特に忙しさに追われる傾向、成果主義、または何かを手放せない、そういうものを手ばなすことができるようになります。

 

私の元々の性質はワーカホリックです。私の育った家族では寝ていることも駄目だ、働いていなさいと言われました。

だから(教会の)ミニストリーに入って働き始めたときは寝ることさえ罪悪感をもちました。

深夜2時、3時に私が起きて働いているのを見て、妻のバーニャは、「あなたはイエスではない。イエスでさえ休んだんです。」と言いました。

毎日2,3時間の睡眠で起きて、何かやんなきゃと思っていました。

それは私にとっていいことでしたか。私にとって生産的だったでしょうか。

私は教会に対して神様がどういうお方かを伝えるスポークスマンとして選ばれました。

私が話すこと、説教することによって人々が神様を味わうことが出来るようになるべきでした。でもそれが起こっていませんでした。

私はもうやることに追われ過ぎて私自身が神様を理解できなくなって神様の言葉が聞こえなくなってしまっていたからです。

私たちも教会もみな一生懸命に働いていましたが、疲れて全然生産的ではなかったです。

 

もし皆さんがリーダーあるいはリーダーシップにいるならば、これを教会に最も投資できる事として行うべきです。

私自身がこのことを自分で実践して、回復して、リフレッシュしていくときに教会が神様を理解できるように私自身が用いられていくことができるようになりました。

そして神様がどう教会を導こうとしていこうとしているかというそのディレクションにもっと繊細になることができました。

そしてかつてないほど教会が皆さんが神様と親密になるということがどういうことなのかを助けることが出来るようになりました。

それは私が立ち止まることを覚えたからです。毎週のルーティンから立ち止まったからです。

教会のリーダーにとって私にとってこれはいい事でした。

私とバーニャはサバティカルをとることを計画していますが、多くのリーダーたちがサバティカルをとるときは燃え尽きたからです。

でもそれはサバティカルの目的ではありません。それはまるで皆さんも仕事をして疲れたから休む、でもそれが神様の目的ではありません。

このサバティカルの目的は私たちをより聖なる者にしていくことです。

神様の御心に対して私たちをより鋭くすることです。リフレッシュすることです。

 

皆さんも安息に投資する必要があります。

皆さん一人一人がそしてこの教会のリーダーの皆さんがこのことを実践するとき、神様は驚くべき方法で祝福してくださると信じています。

私たちにとってそれはどのようなものでしょうか。

もう何年もバイブルトークをリードしている人は、もしかしたら立ち止まる必要があるかもしれません。

燃え尽きたからちょっと他の人やってよ、そういうことではなくて。

もう何年間もバイブルトークをリードしている方であれば数年おきに2,3か月でもサバティカルをとることによってより良いリーダーになって戻ってくることが出来ると私は確信しています。

私はすでにシーリージョン全体に、リーダシップの人々が教会の未来のために全員がやることだと考えています。

そして私たちはこの教会の一員として個々人がこのことを計画していく必要があります。

ただ原則を教えるだけでは充分ではありません。それを実践していかなければなりません。

皆さんに心から強くお伝えしたいです。もしスタッフの皆さんがこのことを皆さんに教えるならば皆さん自身もこのことを実践して模範になってください。

私はこれを実践した人がもっと生産的になってない姿は見たことがないです。

でも疲れ果てて燃え尽きたから休むということであればそれは必ずしもいいことではありません。分かりますか。

 

皆さんにこの民数記8章にある真実に目を向けて欲しいです。この聖句によって締めくくりたいです。

 

民数記8:23-26

主はモーセに仰せになった。

以下はレビ人に関することである。二十五歳以上の者は、臨在の幕屋に入って務めに就 き、作業をすることができる。五十歳に達した者は務めから身をひかねばならない。二度とそれに従事してはならない。ただし、臨在の幕屋で同族の者が警護の任に当たるのを助けることはできるが、自分で作業をしてはならない。あなたはレビ人の務めについて、以上のように指示しなければならない。」



これは神様がモーセに伝えたことです。

50歳になったらあなたたちのリーダーは日々の奉仕から引退しないといけない。

50歳という事を文字通りとらないでください。なんで50歳以上でも働いているのかと。

当時では人の寿命は今ほど長くありませんでした。

ここで神様が命じていることは、日々のやってきたことから離れなさいということであって、何かの務めを果たすことをやめなさいと言っているわけではありません。

 

ここで言っているリタイヤ(引退)ということは世の中が言っていることとは全く違うことです。

世の中のリタイヤは会社を退職してバケーションに出ることです。

60歳まで働いたからこれからは人生を楽しんで行きましょう。バリ島に行きましょうとか。

でもそういうリタイヤの仕方をしてしまうと皆さんは自分を殺してしまいます。

こういうリサーチがあります。もし皆さんが1年間何もしなければIQが毎年3ポイントずつ下がるそうです。

リタイヤして10年何もしなければIQは30ポイント下がってしまいます。

これは真剣な事です。そのような世の中のリタイヤは危険です。

 

聖書がリタイヤしなさいと言う時には日々の奉仕から離れてさらに生産的な別の奉仕に関わっていくことです。

彼らが立ち止まるのはそのことによってもっと若い人たち、25歳の人たちがより日々の奉仕が出来るようにアシストしてサポートしていくためです。そしてそのことによって彼らの方がより良い働きをすることが出来るようになります。

聖書的なリタイヤとは皆さんが怠惰になることではなくて、役割を変えて行くという事です。

 

今このことをインドネシアで実践していて私たちはものすごくエキサイトしています。

9年前私はジャカルタの教会をリードするという日々の奉仕を辞めました。

ブディ夫妻がジャカルタの教会をリードして、私とバーニャは役割を変えて彼らを指導しました。そしてブディ夫妻は今年ジャカルタの教会をリードするという奉仕から離れて、チャールズ夫妻という新しい夫妻がジャカルタをリードすることをサポートしています。

では今ブディさんたちは何をしているかと言えばインドネシア全体をリードしています。

彼らは日々の奉仕から離れてそして神様がやってほしいと望んでいるさらに生産的な働きに彼らはついています。

 

世の中の嘘を決して聞かないでください。もっと頑張ってもっと何かを成し遂げていけば生産的になれるということ、それはリサーチでも違うという事が証明されています。

皆さんは毎週定期的に立ち止まらなければなりません。数年おきに必ず立ち止まって休む必要があります。

それは疲れたからではなくて、燃え尽きたからでもなくて、神様のこの原則と知恵に従っていけば皆さんはもっともっと健全な人に変わっていく事ができます。

そしてもっともっと主において実を結ぶ生産的な者になっていきます。

それが皆さんが誰であるかということだからです。

 

皆さんが誰であるかということから始めていきましょう。

そして私たちは良い働きをするために作られました。

そして神様は私たちが立ち止まるように作られました。

そこにはリズムがあります。

皆さんが誰であるかという存在の中にリズムがあります。

自分が誰であるかということから始めるならば、そして自分が何者であるかということに基づいて行っていくようになります。

そのようにしていくならば、クリスチャン人生をエンジョイしていくことが出来ます。

そして皆さんの心の目が開かれるように祈ります。

神様の祝福がありますように。

 


光の子

2023-02-28 10:12:14 | Weblog

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章8節)

イエス・キリストの十字架による救いによって、私は「光の子」となりました。

それは私が善人だったからではなく、むしろ悪人であったのに神様の愛と憐みによるものです。

「光の子」として頑張って生きてきたわけじゃないのに、自分から望んで神様に頼んだわけでもないのに、「光の子」つまり「神の子」としていただきました。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソの信徒への手紙1章4節)

「天地創造の前」っていつのことでしょう。私には想像できないです。

天地創造以前から私のことを神様はご存知だったということなのでしょうけど、それもまた私の理解力や創造力をはるかに超えてますので、ただ呆然とするだけなのです。

クリスチャンになった今ころ私は、「聖なる者」とか「汚れのない者」となれるように努力しなければと思っていたのですが、それは到底無理なことでした。

私は毎日何らかの罪を犯しました。その多くは罪だと自覚していないことや、自分の思いや考え、または世間の価値観に合わせたために無意識に犯した罪だったと思います。

クリスチャンとして頑張れば頑張るほど、罪を犯してしまう自分に怒りを覚えました。

それだけではなく、「聖なる者」「汚れのない者」になれと命令した神様が厳しすぎると思いましたし、そんな無理なことを命ずる神様の愛を疑いました。

憐み深く寛容なイエス・キリストならいいけど、厳しい神様やプレッシャーを与える神様には近寄りがたいと思ったのでした。

旧約聖書の中には、こんな些細な間違いで人間を裁く、時には命さえ奪う厳しい神様の様子が多々見られます。

旧約聖書を読むのを避けました。それよりイエスの優しさや憐みや愛が書かれている新約聖書を読むようにしていました。

それは私の誤解から始まったことだと分かったのは、2023年1月15日のハーレム牧師の説教を聞いたからです。

私はクリスチャンになったことだけで、聖なる、汚れのない、光の子、つまり神様の子どもとされているのだと知ったのでした。

クリスチャンになったから頑張って「聖なる者」「汚れのない者」になる必要はないということです。

王家に産まれた子供は、生まれただけですでに王の子であるようなものです。

そして「聖なる者」「汚れのない者」「光の子」とされたことは、自分の努力ではなく、ただ神様からの恵み溢れるプレゼントなのです。

私がやることは、これからの人生、「光の子として歩む」ことだけなのです。

ところで、「親の七光り」ということわざがありますが、正確な意味はともかく、「親の七光り」と言われると生まれながらに裕福や地位が高い家の子だから苦労せずに親からの恩恵を受けている人に対して使われていて、好意的な印象がありませんよね。

聖書にこんな箇所があります。

「主が民の傷を包み思い打ち傷をいやされる日 月の光は太陽の光になり 太陽の光は七倍になり 七つの日の光となる。」(イザヤ書30章26節)

私はここから「親の七光り」を連想して、そうか、私は親である神様からの恩恵を生まれながらに受けている「親の七光り」をいただいた子どもなんだなあ、と勝手に思って嬉しくなります。

こんな者なのに、ホントに恵まれています。

神様に感謝しています。