Jesus loves you

イエス・キリストを通して知る神様の愛についてのシェアリング

信仰

2005-01-29 20:33:26 | シェアリング
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11章1節)
クリスチャンは、イエス・キリストが神様の子どもで、私の罪をあがなうため、十字架にかかって、死んで、葬られて、三日目に復活したことを信じて、洗礼(バプテスマ)を受けた者のことです。私もそう信じて、バプテスマを受けました。自分には信仰があるという思いと、そしてこの信仰をこれからも持ち続けるという決心でした。

その後、私も他の人に神様とイエスのことを聖書をとおして教える機会が与えられました。そのとき、上記の聖書の言葉を使って「信仰」を説明する方法を知りました。例えば、電波は見えないけれども存在していることを私たちは日常で認識しています。それは、電波があるという「見えない事実を確認すること」なのです。また、「明日」は今は見えないけれども、私たちは明日が来ることを「信じて」、明日の予定を入れます。それが信仰です。そうすると「信仰」という言葉が宗教的で特別なこととは思えなくなりました。むしろ、日々の生活で特別に意識せず、電波の存在や明日が来ることを信じていることは、すでに信仰をもっていることです。私は他の人に教えながら、かえって自分が信仰を身近に感じることができました。

しかし、私自身の信仰は、バプテスマを受けた時の信仰と同じ度合いで保ち続けているかと問われたら、そうではありません。明らかに弱まる時があります。それは、「望んでいる事柄を確信」できないときに信仰が薄れてしまったり、疑いを抱いたりするときです。「望んでいる事柄を確信」するとは、たとえば、願いごとや夢が叶うと思い込む、信じることです。まだ、それが起こってないのに、起こったと思うことです。でも、望みは実現する時としない時がありました。願いはいつも叶うとは限りませんでした。叶えばもちろん、嬉しいし、神様に感謝する心で一杯になりますが、叶わないと、がっかりして神様を疑います。何故、この願いが叶えられないのだろうかと考えます。神様は願った内容が気にいらないのだろうか、間違っているのだろうか、私のことが気に入らないのか、それとも、私の願いを無視しているのだろうか。神様は万能だと信じていますし、イエスも「神にできないことはない」と言っています。できるのなら叶えて欲しいと思ってしまいます。叶えられるまで祈り続けようと決心しても、何も叶う兆しが見えなかったり、願いとは逆の事や違うことが起こったりすると、嫌になります。あきらめてしまうこともあります。祈ってもどうせ叶えられないなら、最初から祈らないとすねることもあります。神様は私の事を気にかけていてくださるのかしらと疑います。他の人の願いごとは叶えるのに私の望みは叶えてくれないのは、私の事を愛していないのかもしれないと思うと、とても悲しくなります。こういう状態はまさに信仰が弱まる、または不信仰になるというように診断されます。その処方は、クリスチャンのお友達に相談すること、聖書をたくさん深く読むこと、そして「信仰を強めてください」、「信仰を取り戻させてください」とお願いすることなのです。つくづく信仰はなまもので、自分は状況によって影響を受けやすい信仰をもつ弱い者なのだと思い知ります。それでも、私を見捨てずに愛してくれるイエスがいつも共にいてくれることは心強いです。

幸せ

2005-01-21 22:34:47 | Weblog
たくさんの人たちが幸せになりたいと思って生きていると思います。私もそうです。でも、どういう方法で何をしたら幸せになれるのかわからないです。その方法を求めて生きているとも言えると思います。過去、日本では、多くの人たちが物質的に豊かになれば幸せになれると思って頑張ってきました。でも、それがある程度満たされたら、今度は心の豊かさを求めるようになりました。それでも両方とも豊かになった人たちは数少ないように思えますが、彼等は両方とも満たされて、幸せだと思っているのでしょうか。私の周りにはそういう人がいないので、実際どうなのか分らないのです。

そもそも、「幸せ」って何なのでしょうか。広辞苑には、「幸せ」は「心が満ち足りていること、またそのさま。」また、「仕合せ」と書いて、めぐり合わせ、機会、天運、幸運、好運などの意味があります。

イエスは「山上の説教」でこのように語っています。
「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 心の清い人々は、幸いである、 
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは、神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5章3節~10節)

イエスの言う「幸い」の中には、私たちにとっては幸いとは思えないようなことが入っています。心が貧しかったり、悲しんでいたり、迫害されるなどのように、いいこと、喜ばしいこととは思えないことがあってから、そのあと幸いになるということなのでしょうか。でも、たとえば、悲しみの真っ最中の人に向かって、「あなたは慰められるから幸いよ」とは言えません。自分に悲しいことがあったときに、他の人にそのように言われたら、私なら怒ってしまうと思います。でも、こういうことを言っているのは、神様の子であるイエスです。人間からそう言われたら受け入れられないけれども、神様がそうおっしゃっているのです。イエスは悲しんでいる人に同情できない方ではありません。一緒に悲しんでくれて、そして慰めてくれます。悲しむ人には神様からの慰めが与えられるということなのです。
それなら、そもそも悲しい出来事を起さないで欲しいと思う人もいるでしょう。私もそう思います。良くないことが起こってその後に幸せになるよりは、最初から良いことがあって、ずっといいことのまま幸せになりたいと思います。逆から考えると、悲しいことがないと幸せになれない、そういうことなのでしょうか。それとも、悲しいことがあっても幸せになれる、ということなのでしょうか。
最初に書いたように、幸せになるために、物や心を豊かにしようとしていることとイエスの言うこととは、どう違うのでしょうか。私の経験では欲しいものを手に入れた時、幸せと思いましたが、その幸せ感は長続きしませんでした。まだ手に入れていない物がたくさんあったからです。そのようにして物を追いかけて行ったらどこまで行っても満足できないと思います。では、物でなく、広辞苑の定義のように「心が満ち足りている」とはどういう状態なのでしょうか。何をすれば心が満ち足りるのでしょうか。
一時的に「幸せ」になることはできると思いますが、「幸せ」はずっと続いて欲しいものです。永遠に続く「幸せ」って何なのでしょうか。人は幸せになるために生きているとしたら、幸せというゴールはいったいどこなのでしょうか。
私はイエスを知ることで幸せを感じたし、イエスを知れば知る程、その幸せが大きく深くなっていくと思います。イエスと共に生きている、イエスが一緒にいてくれると思うと安心ですし、幸せです。イエスに愛されていると思うと嬉しいし、楽しくなります。心が満たされます。イエスを愛するほかの人たちと一緒にいることでも幸せを感じます。でも、のべつ幕無しに幸せな訳ではありません。不安、恐れ、悲しみ、寂しさなどいろいろなネガティブな思いに襲われます。でも、そういう時にこそ、イエスが共にいることを感じ取りたいと思います。
もしかしたら、イエスは「青い鳥」のようなものなのかなと思いました。「青い鳥」は、二人の子どもが幸せを求めて遠くへ旅に出て、いろいろな試練にあってやっと家に戻ってきた時に、青い鳥はすぐ側にいたことが分るというお話ですが、私たちの幸せを求める旅である人生において、イエスはずっといつも側にいてくれるのではないでしょうか。

希望

2005-01-07 17:28:55 | Weblog
Blog
1/7/05

「希望」って何でしょうか。
旧約聖書のエレミヤ書29章11節に「わたしはあなたたちのためにたてた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と書いてあります。
「希望」という言葉を見て何を思いますか。どんな「希望」がありますか。広辞苑を見ると、「希望」とは「ある事を成就させようと願い望むこと。また、その事柄。ねがい。のぞみ。」と書いてあります。ここで、「ある事を成就させようと」という言葉に注目してください。この主体は誰かと言えば、願い望んでいる人です。たとえば、私が願い望んでいるのなら、私が主体の「希望」ということです。しかし、エレミヤ書をよく読んでみると、この「希望」の主体は誰かと言えば、神様で、神様の「希望、願い、のぞみ」なのです。
そこで私は自分の希望と神様の希望は必ずしも一致していないのではないかと思いました。そこで、聖書に書いてある神様の御言葉である「希望」の箇所に自分の「願い」を入れ換えて読んでみます。たとえば、「結婚」と入れてみますと、「将来と結婚を与えるものである」となります。しかし何か変な感じです。いえ、私にとっては変ではなく、心底それを望んでいますが、しっくりいきません。では、別の言葉を入れてみますと、「お金」「地位」「名誉」「キャリア」などですが、どれも望んでいる事柄なのに、「希望」と置き換えると不安になります。同時に疑いも生まれます。ほんとに「お金」は与えられるだろうか、与えられたとしても永遠に与えられるのだろうかと疑います。また、お金を得たら次は地位が欲しい、いや、他のものも同時に全部欲しいと思ってしまいます。しかし、どれも永遠に存在するものではありません。神様はいつか消えてなくなるものを与えようとしているのでしょうか。
ここで、聖書の他の場所に書いてある「希望」を見てみましょう。
コリントの信徒への第一の手紙13章13節に、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」とあります。つまり「希望」はいつまでも残るものですが、一方「結婚」はいつまでも残りません。離婚しないまでも、夫婦どちらかが死んだら無くなってしまいます。では、いつまでも残る「希望」とは何でしょうか。
テモテへの第一の手紙1章1節に、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエス・・・」と書いてあります。
ここで私はハッとしました。「希望」はイエス・キリストだと分かったのです。
そこで、エレミヤ書に戻って、「希望」を「イエス・キリスト」に置き換えると、「将来とイエス・キリストを与える計画」となります。
他にも、ヘブライ人への手紙6章11節、「最後まで希望(イエス)を持ち続けるために」、
ヘブライ人への手紙7章19節、「この希望(イエス)によって神に近付づく」など希望をイエス・キリストに置き換えても意味が通じるどころか、かえって納得いく御言葉となるのです。
クリスチャンになる時に私は、イエス・キリストが神様の子で、私の罪の為に十字架にかけられて死んで、葬られ、三日目に復活したことを信じ、洗礼を受けました。その時からイエスは私と共に生きて一緒に歩んでいます。私はイエスを与えられたと信じています。つまり希望を持っているのです。「希望」をもっていると私は安心しますし嬉しいです。心が暖かくなります。そして、イエス(希望)はいつでもどこでも私と一緒です。

新年への希望

2005-01-01 17:02:36 | Weblog
あけましておめでとうございます。
新しい年が素晴らしい年になるようにお祈りします。とは言うものの、東京の新年の未明に起こった地震でびっくりとしました。幸い大きな地震でないので、被害があったとは聞いていませんが、いやはやこの地震はいささか挑戦的だなあと思いました。去年が、地震、台風、津波など大きな災害の多かった年だったものですから、きっと多くの方が新しい年こそは平和で幸せな年になって欲しいと願ったことでしょう。なのにこの地震でその希望が揺り動かされたような気になったのは私だけでしょうか。
確かにイエスはこう言っています「あなたがたには世で苦難がある。」と(ヨハネによる福音書16章33節)つまり、私たちはだれもが平和と幸せを願っているけれども、天災は起こるものだし、個人的な人生でもなんらかの問題が起こるものだと承知しています。でも、続けてイエスはこう言いました「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」 また、使徒パウロはコリント信徒への手紙1の10章13節で「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」要するに災害、事故、試練、問題などの苦難にあった時にどう反応するかによって苦難の感じかたや受け止め方が違うようです。大きな地震が起こることを誰も止められません。でも、地震に備えて準備することはできます。避難の方法や少しでも被害を小さくする方法など多くの方が調査研究してくれています。だから平和を願うことと共に、試練に立ち向かう勇気と信仰が育つよう祈ります。そしていつもイエスはあなたと共にいてくださることを忘れないでください。