「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11章1節)
クリスチャンは、イエス・キリストが神様の子どもで、私の罪をあがなうため、十字架にかかって、死んで、葬られて、三日目に復活したことを信じて、洗礼(バプテスマ)を受けた者のことです。私もそう信じて、バプテスマを受けました。自分には信仰があるという思いと、そしてこの信仰をこれからも持ち続けるという決心でした。
その後、私も他の人に神様とイエスのことを聖書をとおして教える機会が与えられました。そのとき、上記の聖書の言葉を使って「信仰」を説明する方法を知りました。例えば、電波は見えないけれども存在していることを私たちは日常で認識しています。それは、電波があるという「見えない事実を確認すること」なのです。また、「明日」は今は見えないけれども、私たちは明日が来ることを「信じて」、明日の予定を入れます。それが信仰です。そうすると「信仰」という言葉が宗教的で特別なこととは思えなくなりました。むしろ、日々の生活で特別に意識せず、電波の存在や明日が来ることを信じていることは、すでに信仰をもっていることです。私は他の人に教えながら、かえって自分が信仰を身近に感じることができました。
しかし、私自身の信仰は、バプテスマを受けた時の信仰と同じ度合いで保ち続けているかと問われたら、そうではありません。明らかに弱まる時があります。それは、「望んでいる事柄を確信」できないときに信仰が薄れてしまったり、疑いを抱いたりするときです。「望んでいる事柄を確信」するとは、たとえば、願いごとや夢が叶うと思い込む、信じることです。まだ、それが起こってないのに、起こったと思うことです。でも、望みは実現する時としない時がありました。願いはいつも叶うとは限りませんでした。叶えばもちろん、嬉しいし、神様に感謝する心で一杯になりますが、叶わないと、がっかりして神様を疑います。何故、この願いが叶えられないのだろうかと考えます。神様は願った内容が気にいらないのだろうか、間違っているのだろうか、私のことが気に入らないのか、それとも、私の願いを無視しているのだろうか。神様は万能だと信じていますし、イエスも「神にできないことはない」と言っています。できるのなら叶えて欲しいと思ってしまいます。叶えられるまで祈り続けようと決心しても、何も叶う兆しが見えなかったり、願いとは逆の事や違うことが起こったりすると、嫌になります。あきらめてしまうこともあります。祈ってもどうせ叶えられないなら、最初から祈らないとすねることもあります。神様は私の事を気にかけていてくださるのかしらと疑います。他の人の願いごとは叶えるのに私の望みは叶えてくれないのは、私の事を愛していないのかもしれないと思うと、とても悲しくなります。こういう状態はまさに信仰が弱まる、または不信仰になるというように診断されます。その処方は、クリスチャンのお友達に相談すること、聖書をたくさん深く読むこと、そして「信仰を強めてください」、「信仰を取り戻させてください」とお願いすることなのです。つくづく信仰はなまもので、自分は状況によって影響を受けやすい信仰をもつ弱い者なのだと思い知ります。それでも、私を見捨てずに愛してくれるイエスがいつも共にいてくれることは心強いです。
クリスチャンは、イエス・キリストが神様の子どもで、私の罪をあがなうため、十字架にかかって、死んで、葬られて、三日目に復活したことを信じて、洗礼(バプテスマ)を受けた者のことです。私もそう信じて、バプテスマを受けました。自分には信仰があるという思いと、そしてこの信仰をこれからも持ち続けるという決心でした。
その後、私も他の人に神様とイエスのことを聖書をとおして教える機会が与えられました。そのとき、上記の聖書の言葉を使って「信仰」を説明する方法を知りました。例えば、電波は見えないけれども存在していることを私たちは日常で認識しています。それは、電波があるという「見えない事実を確認すること」なのです。また、「明日」は今は見えないけれども、私たちは明日が来ることを「信じて」、明日の予定を入れます。それが信仰です。そうすると「信仰」という言葉が宗教的で特別なこととは思えなくなりました。むしろ、日々の生活で特別に意識せず、電波の存在や明日が来ることを信じていることは、すでに信仰をもっていることです。私は他の人に教えながら、かえって自分が信仰を身近に感じることができました。
しかし、私自身の信仰は、バプテスマを受けた時の信仰と同じ度合いで保ち続けているかと問われたら、そうではありません。明らかに弱まる時があります。それは、「望んでいる事柄を確信」できないときに信仰が薄れてしまったり、疑いを抱いたりするときです。「望んでいる事柄を確信」するとは、たとえば、願いごとや夢が叶うと思い込む、信じることです。まだ、それが起こってないのに、起こったと思うことです。でも、望みは実現する時としない時がありました。願いはいつも叶うとは限りませんでした。叶えばもちろん、嬉しいし、神様に感謝する心で一杯になりますが、叶わないと、がっかりして神様を疑います。何故、この願いが叶えられないのだろうかと考えます。神様は願った内容が気にいらないのだろうか、間違っているのだろうか、私のことが気に入らないのか、それとも、私の願いを無視しているのだろうか。神様は万能だと信じていますし、イエスも「神にできないことはない」と言っています。できるのなら叶えて欲しいと思ってしまいます。叶えられるまで祈り続けようと決心しても、何も叶う兆しが見えなかったり、願いとは逆の事や違うことが起こったりすると、嫌になります。あきらめてしまうこともあります。祈ってもどうせ叶えられないなら、最初から祈らないとすねることもあります。神様は私の事を気にかけていてくださるのかしらと疑います。他の人の願いごとは叶えるのに私の望みは叶えてくれないのは、私の事を愛していないのかもしれないと思うと、とても悲しくなります。こういう状態はまさに信仰が弱まる、または不信仰になるというように診断されます。その処方は、クリスチャンのお友達に相談すること、聖書をたくさん深く読むこと、そして「信仰を強めてください」、「信仰を取り戻させてください」とお願いすることなのです。つくづく信仰はなまもので、自分は状況によって影響を受けやすい信仰をもつ弱い者なのだと思い知ります。それでも、私を見捨てずに愛してくれるイエスがいつも共にいてくれることは心強いです。