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イエス・キリストを通して知る神様の愛についてのシェアリング

神様が人間に与えた食べ物は何だったのか?

2020-04-28 20:58:57 | Weblog

人間をお造りになった神様は、人間にどんな食べ物を与えたのだろうかと考えてみました。

創世記第1章から2章には神様が人間を造った様子が書かれています。

 

(1:26)「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』

(1:27)神はご自分にかたどって人を創造された。

 神にかたどって人を創造された。

 男と女に創造された。」

 

そして、このような命令をしました。それは人間の役割でした。

 

(1:28)「『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 

それから神様は人間に食べものを与えてくださいました。どんな食べ物かというと・・・

(1:29)「神は言われた

『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。

(1:30)地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」

 

「種を持つ草と種を持つ実をつける木」とは、種子、草、木の実、そして果物、つまり植物性の食べ物だと思います。

 

そして神様はご自身が創造された男=アダムと女=エバ(イブ)をエデンの園に住まわせ、「そこに生えているすべての木からとって食べて良い」とおっしゃったのでした。

「ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはいけない」とも言われました。

 

(2:9)「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 

「食べるに良いものをもたらすあらゆる木」と書いてあるので、神様が人間に与えた食べ物は植物だったと考えてよいと思いました。

 

神様はお優しい方なんですね。人間を造りっぱなしして、”あとは自分たちで何とか生きて行きなさい”ではなく、ちゃんと生きるために必要な食べ物と住む場所を与えてくださっていたということです。

さらに、神様は人間が植物を食用にするのに適した身体をも備えてくださっていたのでした。

植物を消化吸収しやすい内臓とその栄養を体中に回すことができるように必要な臓器をです。

 

さて、現代の人間は植物性の食べ物だけではなく、肉や卵など動物性の食べ物も食べるようになっています。

いつからそうなったのかというとおそらくアダムとイブがエデンの園から追い出された後からではないかなと思います。

彼らがエデンの園に住んでいた頃は、アダムが園の土地を耕し、二人はそこになった木の実を食べてました。「善悪の知識の木」以外の木の実は何でも食べ放題だったわけです。

神様が彼らの食べものを保障してくれていたわけですね。

でも彼らは「善悪の知識の木」からとって食べてしまったばかりに、園から追い出され、もはや神様から食べものを貰えなくなったのでした。

ようするに自分たちで食べものを探さなくてはならなくなったのでした。

おそらく、エデンの園の外で食べものを探すのは大変だったのでしょう。どこでも木が生えているわけではなく、いつでも実がなっているわけではないので、何も食べ物が見つからないこともあったのではと思われます。

だからそのうちにそこらにいる動物を狩って食べるということを覚えたのではないかなと推測しました。

つまり本来、人間は植物性の食べ物を食べるようにと神様が身体を造ってくださったのに、動物の肉を食べるようになってしまった。

そのために体の臓器が対応できなくなって、何らかの無理が生じたために、体調不良や病気になっているのではないかと思ったのです。

また、エデンの園を追放されてからは、木の実が見つからない、動物もつかまえられなくて、数日間食べ物が確保できるわけではなかったので、その時代に人の身体は空腹に耐えられるようになってきたのではと思います。

しかし、現代はいつでも3食簡単に食べられるのですから、これもまた神様がお造りになった身体のしくみと合わなくなっているのです。

元々は植物性の食べ物を消化吸収するのに適した身体を持ち、毎日食べることが出来なくても耐えられる身体であったのに、今は動物性の食べ物も食べるし、1日3食好きなだけ食べることが出来る。

まるで軽トラックに3トントラック分の荷物を無理やりに積み込んで走っているような状態になっているわけです。

道理で現代の人間は疲れやすくて、免疫力が低くって、病気になりやすいわけですね。

今こそ私たちは神様がもともとお造りになった身体に適した食べ物に回帰するべきなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 


小説「怒りの葡萄」にイエス・キリストを見た

2020-04-25 21:29:14 | Weblog

タイトルが気になっていたものの読んだことがなかった、ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」"THE GRAPES OF WRATH"(1939年・大久保康雄訳)を意を決して読みました。

1940年にピューリッツア賞を授賞した文庫本2巻に渡る大作なので、読破できるか心配でしたが、その文章の力強さと緊迫感あふれる内容に引き込まれてしまい、読破することができました。

「ルポルタージュ的作品」という解説の通り、小説とは思えないほどのリアリティーがまるで映画を見ているように迫ってきたのです。

1930年代前半のオクラホマを襲った砂嵐の災害と大資本によって自分たちの開墾した土地を奪われた農民たちの苦難と葛藤を描いた物語です。

少々ネタバレしますがあらすじは、

わずかな家財道具を車に積んで、生きるためにカリフォルニアを目指して大移動する農民たち。 西に行けば豊かな農場が広がっている、葡萄、桃、綿花摘みの仕事がいくらでもあると聞いて、ジョード一家も出発した。 しかしやっとたどり着いたカリフォルニアで彼らが出会ったのは、わずかな賃金でも仕事が欲しいと群がる人々を虐げる権力者たちだった・・・。

私が心惹かれた登場人物は主人公トムジョードの母親(おっかあ)と、ジョード一家と旅をする元説教師のケーシーです。 

今日はケーシーのことをお話しします。

説教師ケーシーは、自分のやっていることに疲れてしまった、何に向かって、何のためにお祈りしているのか分からなくなったから説教師を辞めて旅に出たと言いました。自分の信仰をあきらめてしまったようです。

けれども、彼はジョード一家の一人一人、特にトムを心から気にかける心優しい人物でした。旅の間に起こった事件でケーシーはトムのかわりに刑務所に入ります。ジョード一家の移動を担うトムをかばって西に行かせるためでした。

説教師をやめてしまったけれども、神様はケーシーをあきらめていなかったし、ケーシーの心から信仰が消えてなかったからこのような自分を犠牲にする行為ができたのだと思います。

また、ケーシーが捕まる前、旅の最中、彼はトムに「伝道者の書」(コヘレトの言葉)の一節をシェアーしました。それは、4章9~12節

「ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。」

その後カリフォルニアでトムは釈放されたケーシーと再会しますが、またその時も事件が起こります。

そのときケーシーは権力者の手下たちに襲われてしまうのですが、彼が死ぬ間際にこう言うのです。

「おめえさん方は、自分が何をやっているのかわかってないんだ」と。

イエス・キリストが十字架にかかって息を引き取る前に言われた言葉を思い出しました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)

信仰をあきらめていると言っていたケーシーは最後までイエス・キリストの姿を見ていたのでしょう。

 

「百万エーカーを所有する一人の地主のために十万の農民が飢えた」と書いたスタインベックは、小説「怒りの葡萄」にアメリカの商業主義への強い怒りを込めたと、この小説の翻訳者である大久保康雄氏が書いています。

私は、権力者からの迫害と飢えに苦しんだジョード家の人々やケーシーがそれでも生きていこうと前に進んでいけたのは、怒りよりも神様の導きがあったからだと思いましたし、そこに感動しました。 

神様は「怒りの葡萄」にも力強く働きかけてくださったのだと思うのです。


イエスの「憐み」って何だろう

2020-04-20 15:58:27 | Weblog
「『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)

この場面はイエスが、徴税人マタイの家で大勢の罪人(つみびと)たちと食事をしていたところを、ファリサイ派の人たちが見て、イエスを批判した後にイエスがおっしゃった言葉です。

私はファリサイ派の人たちの考えにすごく共感します。 イエスのような偉いお方が、罪人と一緒にいるだけで、あり得ない行為。彼らもここにいることさえ、食事をすることさえ、ふさわしくないと思うからです。

イエスが彼らと一緒に食事したのは、「憐み」からだということはイエスの言葉から明らかですが、私はこの「憐み」が理解できません。 おそらくファリサイ派の人たちも理解できなかったことでしょう。

もし、善人がひどい目に遭っていたのなら、私は「あわれむ」ことができるでしょうが、ここにいたのは罪人たちです。 しかも食事の場所を提供していたのは、当時最も悪人と思われていた徴税人のマタイでした。

私の「あわれみ」とは、あくまでも自分が優位に立った状態にいて、自分よりも悪い人たちとか、愚かな人たちとかに対して、「あら、かわいそうに。でもあなたがこうなったのは自業自得なんじゃないの。」というものです。 

彼らのそばには近寄りたくありませんし、ましてや一緒に食事をするなんてことは考えもしません。

しかしどうやら、イエスの「憐み」は違うようです。

姦通を犯した女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ8:11)と憐みをもって彼女の罪を赦したイエス。

重い皮膚病(らい病)にかかった人に手で触れて癒したイエス。

イエスはまったく罪を犯さなかったけれども、罪人の気持ちをよく理解していた(ヘブライ4:15)ということなのでしょうか?

イエスには強い「共感力」があったから「憐み」を持てたのでしょうか?

私は最近「ミラーニューロン」という言葉を知りました。 「感情を自分の脳の鏡に映してまねることで、同じ感情を感じ」とるということだそうです。(医学博士 前山浩信著「便利生活があなたを蝕む」P.213)

ということは、イエスのまねをすることで、イエスの性質を「ミラーニューロン」できるということではないかなと思いました。

クリスチャンは「イエスのようになる」ことを目指します。日常のいろいろな状況において「こんなときイエスだったらどうするだろう」と考えるようにします。そんなことと同じことなのかなと思いました。

イエスをまねれば、イエスの「憐み」が理解できるのかもしれない、イエスのような憐みを感じることができるかもしれない、そう思っただけで少しイエスの近くに行けたような気がしました。