きままな旅

きままな旅ときままな日記

2014/05/15 織田劔神社、誠照寺、萬慶寺

2014-05-25 | 尾張文化の会

2014/5/15 劔神社、誠照寺、萬慶寺へ『尾張文化の会』の会員さん41名と行って来ました。(No357)
 当日は曇り空であったんですけど、劔神社の説明の後半にちらほら雨が落ちてきました。
 北陸の旅に『弁当忘れても、傘忘れるな』のとおりでした。
✿越前二の宮 織田劔(つるぎ)神社
 劔神社は、神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇第二皇子忍熊王は、劔大神の御神助を得て当地方を平定された現在の地に社殿を建て、素盞嗚大神の御神霊を“劔大明神”と仰いできたことがはじまりとされています。
・織田信長公ゆかりの神社
 越前町織田は、織田信長の祖先の故郷です。織田氏の祖は越前織田の荘の荘官として、また越前二の宮劔神社の神官として祖先を尊崇してきた由緒ある家柄です。

  拝殿   織田一族の家紋
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   神殿   織田一族発祥の地
✿誠照寺(じょうしょうじ)
 上野山誠照寺の起源は、承元元年(1207年)宗祖親鸞聖人越後へ配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の豪族波多野景之の別荘「車の道場」にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた。
 その後景之は聖人の第五子道性(益方入道)を招請してこの車の道場にお迎え、道性の息男、如覚上人とともに布教活動にあたり「車の道場」の地が狭隘となったので、現在の地に移転、時の天皇より真照寺の勅額を賜ったと伝わります。後、真照寺から誠照寺に名を変えたそうです。
 御影堂<ごえいどう>・阿弥陀堂<あみだどう>などの中心建物は、文久2(1862)に火災にで焼失した際に、龍が水を吐いて門を炎から守ったと言い伝えられている。
 四足門の水を吐いた「駆け出しの龍」は名匠左甚五郎の作だそうです。

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四足門   駆け出し龍
✿萬慶寺(ばんけいじ)
 萬慶寺は、享保5(1720)に初代鯖江藩主間部詮言(まなべあきとき)が越後村上藩から鯖江藩に国替えに伴い、村上の常福寺の僧陽光が「万松庵」を建立てたのが始まりで。その5年後に移設し萬慶寺に改め、本山永平寺から承天禅師を迎えて開祖し、以後鯖江藩主・間部家の菩提寺とされた。
 承天則地禅師は、永平寺貫首(かんしゅ)第39世であった。又、元禄15年赤穂浪士を吉良上野介の首を取った後、泉岳寺に受け入れたおり、「義士夜討高名咄」の著作者といわれています。

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   本殿     楼門(江戸時代)
【松堂公の誓願】
 宇宙の自然現象である想像の動物であり、『風神』(チ)感謝、恵み、『龍神』(オロチ)畏敬(いけい)、安らぎ、『雷神』(イカズチ)共生、思いやりを伝えて居るそうです。<『チ』繋がり>
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  鯖江藩第7代藩主間部詮勝公作の天井絵
 詮勝公墓碑(中山法華経寺(千葉県市川市))の拓本。詮勝公のことを御住職は「松堂さん」と言ってました。拓本の上にある年譜は、詮勝公が奏者番、文政9年(1826年)・寺社奉行、天保2年(1831年)・大阪城代、天保8年(1837年)・京都所司代、天保9年(1838年)・一度目の老中、天保11年(1840年)・二度目の老中、天保12年(1841年)に就任し、後、明治天皇より(1883)明治16年に菊の杯を賜りましたことしたことを説明したもの。
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 その他に詮勝公が書かれた『中国の天台山の絵』(名前は不明)の模写の現物と説明書きが有りました。

             以上

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