きままな旅

きままな旅ときままな日記

2017/08/02 京都市伏見(御香宮神社、伏見御堂、油懸地蔵尊、寺田屋、魚三楼等)を歩く。

2017-08-04 | 尾張文化の会

2017/08/02 京都市伏見を歩く。

 今回は仲間6人でJR奈良線桃山駅を11時に出発して「伏見酒造のまち」を観て15時に当駅に戻ってきた。

✿御香宮神社(ごこうのみや)
 神功皇后を主祭神として仲哀天皇、応神天皇ほか6柱の神を祀る。一説には平安時代、貞観4年(862)に、境内から清泉が湧き出し、これを飲んだ病人の病が癒えたことから、清和天皇より社殿を修理するよう勅旨くだされ、以後、御香宮とよばれた。
 
     道路上の鳥居     東入口の鳥居
 
 表門は元和8年(1622)御三家水戸徳川家の祖・徳川頼房(黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。(国重文)
 
          拝殿(割拝殿)(府重文)
 
     拝殿入口の模様

     本殿(国重文)
  
   御香水は伏見の七名水の一つで、徳川御三家それぞれの初代、尾張の義直、紀伊の頼宣、水戸の頼房が産湯をつかったとい云われる。
✿桃山天満宮
 
     参道     拝殿
○伏見義民跡
 天明5年(1785)時の伏見奉行小堀政方の悪政(重税・重罪を課して暴ぎゃくがその極みに達した)を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自ら悲惨な最期遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。
  
     石碑      石標の入口にある狛犬(?)
✿伏見銀座の碑
 鋳造を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所を徳川家康は特権商人によって構成させた銀座町である。

     石標
✿会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、薩摩藩の先鋒隊が大坂から船にて伏見京橋で上陸しここ伏見御堂を宿陣としたと云う。
 
     山門     石標
✿油懸地蔵尊(西岸寺境内)
 寺伝によれば、昔、山崎の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りをそそいで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたという。
 
     石標     
  
     地蔵尊堂     地蔵尊(油で光ってます)

     芭蕉の句碑
・芭蕉の句碑(我衣に ふしみの桃の 雫せよ)
 貞享2年(1685)住職の宝誉上人を訪ねた折に詠んだ詩である。
✿白菊水
 延宝5年(1677)の酒作りに使われ、「御香水」と同じ水脈と云う。

 水汲みの列
✿伏見土佐藩邸跡

     石標
✿寺田屋
 坂本龍馬が定宿と場所で、慶応2年(1866)お龍(龍馬の妻)の機転で難を逃れた襲撃事件と文久2年(1862)薩摩藩士との寺田屋騒動が有名である所である。
 
           薩摩九烈士遺蹟志の石碑
 
     坂本龍馬像
 
     石碑(坂本龍馬先生避難の趾と刻印)
✿寺田屋はま
 京橋よりみる「寺田屋はま」 
  
     石標     船着場
✿伏見口の戦い激戦地跡
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、薩摩藩の先鋒隊が大坂から船でこの辺りで上陸したと云われる。

     石標
✿京橋
 江戸時代、舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋辺りと云われる。
 
     伏見港と思われる
✿伏見長州藩邸跡


 
     土木事務所内石標

観月橋(古く昔ここに橋が有ったのかな?)
✿長建寺
 本尊は弁財天を祀る。中書島開拓にあたって伏見奉行建部内匠上政宇(まさのき)が、元禄12年(1699)多聞院を移し、奉行の名と長命息災祈り「長建寺」と名づけた。
 
     山門     楼閣

     本堂
 
     閼伽水     アリア燈籠(切支丹灯篭)
✿十石船発着場
 
     弁天橋
 
     発着場
○大倉記念館
 
     記念館の入口
✿魚三楼(うおさぶろう)
 「鳥羽伏見の戦い」の弾痕が連子格子に残されている。

     魚三楼
 
     連子格子の弾痕

     弾痕の向きはこの方向かな?
✿伏見奉行所跡と伏見工兵第十六大隊跡
 
     石標
・残念、今回は薩摩島津藩邸跡を廻ることが出来ませんでした。
     以上

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