2019/04/18 岐阜市にある寺、城を訪ねた。
『尾張文化の会』のメンバー36名と今年度最初のバス旅行で岐阜市にある常在寺、正法寺、大龍寺、岐阜錠を訪ねた。当日の天気は快晴でこの数日20度を超し上着は要らずカッターシャツで行動していた。また、天皇皇后殿下は退位の報告に伊勢神宮に来られでこの地域は皇室フィーバーしていた。(No409)
〇鷲林山常在寺(じょうざいじ)日蓮宗
室町時代の宝徳二年(1450)土岐家守護代として美濃を支配していた斎藤妙椿(みょうちん)公が建立しました。
斎藤道三の菩提寺とし、のちの斎藤道三三代の菩提寺と云う。
・本堂内には斎藤道三と斎藤義龍画像(重文)の複製が展示してあった。
・境内には斎藤道三供養塔・斎藤家五輪塔がある。
・住職は寺の話の中にいわゆる「長良川の戦い」で斎藤義龍は道三の実子ではなく、かつての主の土岐頼芸(よりよし)の落胤(らくいん)と言われていました。そのため道三は義龍に家督を譲るのを良とせず、実子である孫四郎(次男)や喜平次(三男)を可愛がり家督を譲ろうと工作しました。そして道三を討ち取った者「小牧源太(こまきげんた)」の話になり源太は大殿の斯様な姿など見たくはないと密かに川の土中に埋めた。現在は対岸に史跡「道三塚」として江戸後期に移されたと語っていました。
石標 本堂
〇金鳳山正法寺(しょうぼうじ)黄檗宗
天和三年(1682)に大休(だいきゅう)禅師の命を受け廣音(こうおん)和尚がここに草庵を結んだことに始まり、開山は大休禅師の祖翁の千呆(せんがい)禅師とし、黄檗山萬福寺の末寺であると云う。
・岐阜大仏(県重文)
当山の門徒が少なく、各地への托鉢を重ね浄財を仰ぎ寛政六年(1794)には頭部だけの出来上がり後に、全体像は文政十二年(1829)に完成を迎え、天保三年(1832)の開眼供養には尾張尾州候の使者を賜り、38年の歳月をついやしたと云う。
日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさであり、仏像(坐像)は高さ13,7mで大イチョウの直柱を中心に骨格は木材で組み外部は竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものであると云う。
・大仏のまわりを取り囲んでいる五百羅漢像(江戸中期)が配されている。
・大仏殿(県重文)
大仏殿は中国の様式が感じられる。
〇金粟山大龍寺(だいりゅうじ)臨済宗妙心寺派
この地域では「だるま観音」大龍寺で親しまれています。
寺伝では、第四十一代持統天皇の御世(686~697)に鎮護国家の為に創建されたのが始まりと云う。本尊の腹帯子安観世音菩薩は、第七十七代天皇であった後白河院が安元元年(1175)に、孫の安徳天皇の托胎安泰の勅願所として安置した霊尊です。
住職のお話は「仏のことば 丁度よい」、丁度よいのだと聞こえた時 お前はお前で丁度よい、顔も体も名前も姓も お前はそれで丁度よい、・・・仏様と二人ずれの人生 丁度よくないはずがない 憶念の信が生まれます 南無阿彌陀佛 で多くのことばの最後に「丁度よい」が付く素敵な言葉と感じました。
本堂
鐘楼
地蔵堂
・達磨大師
大きさは高さ約5m(丈六)の達磨大師坐像です。
・花の庭園 満天星(どうだん)
一面真っ白に見える木は近くによるとスズランのような花が鈴なりです。
〇岐阜城
三重塔 一ノ門
天守
今回の岐阜城は「山上部発掘調査」で発見された場所を見たく出かけた、簡単に発見できると甘い考えであったと反省する。
ロープウェイより天守までの道をじっくり探したが素人には難しく、帰り道に「二の門」下で偶然パンフレットを入手したが団体行動で集合時間が迫り、・・・結果的に場所はパンフに有り、「今回の発掘調査で確認した石垣は、「下台所」に入る「二ノ門」の下位置します。・・・信長の入城の際に築かれたと考えられます」と写真入りの概略図も付いていました。目視できなく残念であった。
パンフレットに載っている調査位置
調査位置の近く「下台所」 近くの調査位置
以上