私はカップを買いに行く。
この男が売るカップを買うのは、もう何度目だろうか。
選択肢はいつでも九つ。
でも、買えるのはいつでも一つ。
迷う。どうしても迷う。
なぜなら、同じように見えて、今まで一度も同じカップはなかったからだ。
おまけに、男はカップを手に取ることを許さない。
だから、ここから、一つ一つをじっくり見て、
あれを、と指差すだけ。
今回選んだカップを渡される。
男は「まだまだですな」なんていう。
手に取ると、驚くほど軽い。
というより、重さがなかった。
まるで羽を1枚、持っているようだったが、
とてつもなく頑丈に思えた。
今までの、どのカップとも違った。
私は大変良いものを手に入れたと思って、うきうきと家に帰る。
さて次の日。
昨日、買ったはずのカップがない。
おかしい。
そんなわけはないと家じゅう探すが、どうにも見つからない。
本当に困った。
息苦しくなって、窓を開ける。
とたんに風が吹き、
どこかでぱたんと音がした。
今のは?
また風が吹く。
今度は転がる音がする。
まさか、と思い、音のする場所を手探る。
カップはあった。
けれども透明で、重さもなかった。
昨日、金色に輝いていたけれど、
あれは、男が見せた色だったんだ。
こんなカップは初めてだ。
私は途方にくれた。
あの男が売るカップは、必ず使わなければいけないのだ。
そうでなければ、10に進めない。
10に進めなければ、カップが私の世界から無くなってしまうのだ。
以前、一度だけ、手にしたカップがあまりに重く、
使うことができなかった。
10はやってこなかった。そして、私は笑い方を忘れてしまった。
長い時間をかけ、男を探し、ようやく私はカップの意味に気付いた。
カップには、それぞれ、ある出来事が入っているのだ。
あるカップで、私は憎しみを知った。
またあるカップで、愛おしさを知った。
つらさ、苦しさ、喜び、癒し、
たくさんの心を知るために、カップにはそれにふさわしい出来事が入っているのだ。
それにしても困った。
透明で重さのないカップを、どう使おう。
どうすれば、目に見えないものを見ることができるのだろうか。
どうすれば、手に触れないものを使うことができるのだろうか・・・
そうか。
それが、今度のカップの意味だったのか。
カップは、またどこかに行ってしまった。
手から離れた途端、
どこにあるのか、分からなくなってしまった。
目に見えないものを信じられる心、
手に触れられなくてもあると信じる心、
頭ではなく、本当にそのことが分かるまで、
きっとカップは見つからないのだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます