タロット柊

考えること、感じることの記録

25日(月)ペンタクル10「伊勢神宮」

2019-03-25 22:40:04 | タロット2019・3月

昨日、伊勢神宮に初参詣。

前日の23日に逆位置のペンタクルのエースが出て、「私的スピリチュアルの探求」という解釈をしたが、

そのことが続いていると仮定して、今日はペンタクルの10を見てみたい。

 

神宮に参拝する人々の願いはさまざまだろうが、

もし、お参りの結果をペンタクルの10と解釈すると、

繁栄や富を表すペンタクルの10が出たのだ、

何はともあれ、大成功、大願成就ということになるだろうか。

 

それなのに、なぜだかすっきりしない。

なんだか違う気がする。

 

それは、

ペンタクルの10の左端に描かれている、「生命の樹」と呼ばれるものとの関係だ。

ペンタクルの10が表す繁栄や富の奥にある真意は、

「生命の樹」と人々の分離が極まってしまっているということを告げているのだ。

 

ペンタクルは、もともとは、全てを生み出す生命の樹から生まれ、

やがて、大地へと降りてくる。

そのとき、生命の樹とわれわれを結び付け、

あるべき姿として大地に根を下ろすことで、その役割を完成させる。

 

しかし、ペンタクルの10の中のペンタクルは宙に浮き、

私たちは、生命の樹にも大地にも結びけられてない。

それどころか、樹の存在にも気付いていな様子だ。

この宙に浮いた繁栄や富は、この先、いったいどうなるのだろうか。

 

 

 

これを読んでくださっている方の中で、神宮に行かれたことのある方はどのぐらいいらっしゃるのだろうか。

私は初めて行ったのだが、

なんというか、まさにペンタクルの10のようなことになっていた。

 

とにかくすごい人込みで、

(春休みに入っていたことや、日曜日ということもあったと思うし、いろいろ理由はあると思うが)

まぁ、私自身、

大好きな赤福が食べられる!ことに気を取られ、

参拝という神聖な心持ちよりは、なんだか地に足がつかない、わさわさした気持ちだった。

 

 

 

神宮では、見事な木々たちが、その特別な存在感を放っていた。

しかし、わさわさしている私たちの目には、

恐らく、あの木々は、立派な大木の姿としてしか映らないのだろうと思った。

 

もちろん、立派な大木が立ち並ぶさまは、見る者を圧倒するし、畏怖の念をも覚えるが、

ひょっとすると、あの木々は、

何か神聖なものと私たちを結び付け、大地に根付かせる役割があるのではないだろうか、

そう想像したくもなるような独特の雰囲気をもっていたなと、

ペンタクルの10を見て思い出す。

 

願い事成就という点から見ると、ペンタクルの10は喜びだが、

「私的スピリチュアルの探求」という点から見ると、

そのことは成就されなかったということになるだろう。

 

 

ただ、そのわさわさした人間たちの心持から距離を置くように、

風日祈宮だけは、別の存在感を漂わせていたように思う。

あの橋のおかげなのか、それとも、橋のたもとにあった、大木のおかげなのか。

そのどちらの作用も相まってか、

風日祈宮に参拝する人はまばらで、参拝の姿にも神聖さがにじんでいた。(なぜか、人の観察をしてしまう)

 

人間の、さまざまな思惑が満ちた行為によって、

あれほどの場所でさえ、そこに流れる空気が沈黙してしまっている様子に、私は少なからず驚いた。

しかし、私たちが真摯に向き合い、心を定めたとたん、

生命の樹と大地を結ぶ木々は沈黙を解く。

やはり、日本人という民族にとって、心をそわすことが自然になされる場所なのかもしれないと感じ、

次は、ちゃんと、参拝いたします、と、

妙に神妙な気持ちになった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿