ギリシャ神話のナルキッソスは、水面に映った自分に恋をし、その真実を理解できずに死んでしまう。
カップのナイトは、自己愛という一面を持つが、
自己愛がなければ、自己は確立せず、パーソナリティーも育たない。
けれども、過ぎた自己愛は、自らを滅ぼすことになる。
人は幼いころは、自己愛でいっぱいだ。
それが普通の成長の過程であり、そこで、十分に認められ、大切にされれば、
やがて少しずつ、少しずつ、利他愛が育ち始める。
利他愛。
これほど難しいものはないと、心底思う。
何の駆け引きもなく、何の約束もない、
ただ、自分以外のものに、自分を捧げる行為だ。
私たちの中に、利他愛はあるだろうか。
ほんのひと時でも、
自分を犠牲にしても本当に相手の幸せを願う行為ができただろうか。
自己愛から発生した利他愛のような顔をしたものが、満ち満ちている世の中で、
私たちは結局、ナルキッソスのように、
水面に映った自分を見ているだけなのではないか。
ナルキッソスが死んだ場所には水仙が咲いたと言われるが、
私たちが死んだ後には、何が残るのだろう。
肉体が滅びてもなお、何かを残したいと願うのは、自己愛のなせる技で、
水の流れのように、とどまらず、誰かの心にしみ込み、
自分というものさえなくなってしまう。
きっと利他愛とは、そういうものなのだろうと思う。
そういうものが、あなたの心にも確かに存在し、
いつでもあなたから流れ出て、誰かの心に届くのを待っている。
あなたの心から流れ出た利他愛は、
オアシスのように命を育む。
そこに集まるものたちの中にあなたは生き、
至福の循環に到達するだろう。
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