満福山城国寺

宮城県栗原市にある曹洞宗の満福山城国寺のブログです。

自己を捨てること

2009-01-02 04:57:25 | 『正法眼蔵随聞記』
 夜話に云く、祖席に禅話を覚リ得ル故実は、我ガ本ヨリ知り思ふ心を、次第に知識の言に随ツて改めて去くなり。
 仮令仏と云フは、我ガ本知ツたるやうは、相好光明具足し、説法利生の徳有リし釈迦弥陀等を仏と知ツたりとも、知識若シ仏と云フは蝦蟆蚯蚓ぞと云はば、蝦蟆蚯蚓を、是レらヲ仏と信じて、日比の知恵を捨ツルなり。こノ蚯蚓ノ上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求ムるもなほ情見改まらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。若シ是のごとク言に従ツて、情見本執を改めてもて去けば、自ラ合ふ処あるべきなり。
 然ルに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とはとこそ有るべけれ、また我ガ存ずるやうにたがへば、さは有ルまじなんどと言ツて、自が情量に似タる事や有ると迷ひありくほどに、おほかた仏道の昇進無きなり。
 また身を惜シミて、「百尺の竿頭に上ツて手足を放ツて一歩進め。」と言フ時は、「命有ツてこそ仏道も学せめ。」と云ツて、真実に知識に随順せざるなり。能々思量スベシ。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-10


どうしても、「仏」というと、釈尊や阿弥陀仏といった、素晴らしい覚者ばかりを想像してしまいますが、禅宗では、カエルやミミズが仏であると説きます。そのようなとき、我々は自分自身の見解に固執し、釈尊や阿弥陀仏ばかりに執着してしまいます。

しかし、道元禅師はそのような自分の見解を捨てなければ、仏道を学ぶことはできないとしているのです。指導者に就いたとき、その指導者の見解を第一にしながら、仏道を学ぶことが必要だとされているのです。

身心を惜しむことなく、百尺の竿の先から、全身心を投げ捨てるようにして学ぶ必要があるのです。我々はどうしても、自分自身が可愛いですから、そのようなことをすれば、死んでしまう、元の自分と変わってしまう、とばかり考えています。しかし、本来、そのような元の自分などは存在しないものです。勝手に、自分自身で、有ると仮設しているだけです。

ですので、捨ててしまえば良いのです。そして意外と、捨てても、新しい自分がすぐに作られていきますので、大丈夫なものなのです。