我レ大宋天童先師の会下にしてこノ道理を聞イて後、昼夜定坐して極熱極寒には発病しつべしとて諸僧暫く放下しき。我レそノ時自ラ思はく、直饒発病して死ヌべくとも、なほただ是レを修すべし。病まずして修せずんば、こノ身労しても何の用ぞ。病して死なば本意なり。大宋国の善知識の会にて修し死ニて、よき僧にさばくられたらん、先づ結縁なり。日本にて死なば是レほどの人々に如法仏家の儀式にて沙汰すべからず。修行して未だ契ハザル先に死せば、好キ結縁として生を仏家にも受クべし。修行せずして身を久シく持つても詮無キなり。何の用ぞ。況ンや身を全くし病作ラずと思ふほどに、知ラず、また海にも入リ、横死にも逢はん時は後悔如何。是ノごとク案じつづけて、思ヒ切ツて昼夜端坐せしに、一切に病作らず。
如今各々も一向に思ヒ切ツて修して見よ。十人は十人ながら得道スベキなり。
先師天童のすすめ是ノごとシ。
『正法眼蔵随聞記』巻2-11
これは、中国の天童山に修行に行かれた道元禅師が、自ら見聞してきた様子を示す一文です。病や死をおそれて修行をしないというのは、本末転倒だというのです。むしろ、何もせずに死んでしまうことの方が、坐禅をして死ぬことよりも、危険なことだというのです。よって、道元禅師はその無為の死をおそれて、ひたすらに自ら坐禅をしたというわけです。
ただ、無為に死んでしまえば、次の世に生まれたとき、同じく修行できるか分かったものではないわけで、そうであれば、良き指導者に巡り会い、修行をした方が良いわけです。
四の五の言わずに、思い切って修行することが非常に重要です。「思い切って」というところが、とても大切で、この結果、十人が十人ながら仏道を得ることが出来るとされているわけです。なんとなく続く日常の中で、どこか、思い切って決断する状況にないようなときがあるかもしれません。しかし、それでは、惰性の日常に成りかねません。
よって、常に、自らの生き方を思い直す機会にする、坐禅というのは、そういう機会になるといえましょう。
なお、道元禅師が「大宋国の善知識の会にて修し死ニて、よき僧にさばくられたらん、先づ結縁なり」というのは、中国で客死した明全和尚のことかな、と思ったりするのです。
如今各々も一向に思ヒ切ツて修して見よ。十人は十人ながら得道スベキなり。
先師天童のすすめ是ノごとシ。
『正法眼蔵随聞記』巻2-11
これは、中国の天童山に修行に行かれた道元禅師が、自ら見聞してきた様子を示す一文です。病や死をおそれて修行をしないというのは、本末転倒だというのです。むしろ、何もせずに死んでしまうことの方が、坐禅をして死ぬことよりも、危険なことだというのです。よって、道元禅師はその無為の死をおそれて、ひたすらに自ら坐禅をしたというわけです。
ただ、無為に死んでしまえば、次の世に生まれたとき、同じく修行できるか分かったものではないわけで、そうであれば、良き指導者に巡り会い、修行をした方が良いわけです。
四の五の言わずに、思い切って修行することが非常に重要です。「思い切って」というところが、とても大切で、この結果、十人が十人ながら仏道を得ることが出来るとされているわけです。なんとなく続く日常の中で、どこか、思い切って決断する状況にないようなときがあるかもしれません。しかし、それでは、惰性の日常に成りかねません。
よって、常に、自らの生き方を思い直す機会にする、坐禅というのは、そういう機会になるといえましょう。
なお、道元禅師が「大宋国の善知識の会にて修し死ニて、よき僧にさばくられたらん、先づ結縁なり」というのは、中国で客死した明全和尚のことかな、と思ったりするのです。