満福山城国寺

宮城県栗原市にある曹洞宗の満福山城国寺のブログです。

檀那の信施を貪る

2009-01-25 05:55:12 | 『正法眼蔵随聞記』
 ある人問ウテ云ク、「名利の二道は捨離しがたしと云へども、行道の大なる礙なれば捨てずんばあるべカラず。故に是レヲ捨ツ。衣粮の二事は小縁なりと云へども行者の大事なり。糞掃衣、常乞食、是レは上根の所行、また是レ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故にそノ労なし。我ガ国の寺院には常住物なし。乞食の儀も即チ絶エたり、伝ハラず。下根不堪の身、如何がせん。尒らば予がごときは、檀那の信施を貪らんとするも虚受の罪随ヒ来る。田商仕工を営むも是レ邪命食なり。ただ天運に任せんとすれば果報また貧道なり。飢寒来らん時、是レを愁として行道を碍つべし。ある人諌めて云ク、『汝が行儀太あらじ。時機を顧ミざるに似たり。下根なり、末世なり。是ノごとク修行せばまた退転の因縁と成リぬべし。あるイは一檀那をも相語らひ、若シクは一外護をも契ツて、閑居静所にして一身を助ケて、衣粮に労スル事無くして仏道を行ずべし。是レ即チ財物等を貪ルにあらず。時の活計を具して修行すべし。』と。この言を聞クと云へども未ダ信用セず。是のごとキ用心如何。」
 答ヘテ云ク、夫レ衲子の行履は仏祖の風流を労すべし。三国殊なりと云へども、真実学道の者未ダ是ノごとキ事有ラず。ただ心を世事にいだす事なかれ。一向に道を学すべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-13


或る人(おそらくは僧侶)が、日本の寺院が総じて貧しいことを指摘しながら、その中でどのように修行をしていくべきかを道元禅師に尋ねています。内容は、乞食の法が日本にはないので、とにかく檀信徒から布施を貰ったり、自分で田畑などを経営したりしても、結局、行き詰まったら、修行を止めてしまいそうだと素直に語るわけです。

そして、別の人から、大きな檀那が1人いれば大丈夫だ、等と教えられています。

道元禅師は、それらを総じて批判しています。理由は、古来、そのように修行した者がいなかったことを挙げ、とにかく「稽古」すべきであるとされるのです。具体的な話は、次回にいたしましょう。