示ニ云ク、人は思ヒ切ツて命をも捨て、身肉手足をも斬ル事は中々せらるるなり。然れば、世間の事を思ひ、名利執心のためにも、是ノごとク思ふなり。ただ依リ来る時に触レ、物に随ツて心器を調フる事難きなり。
学者、命を捨ツると思ウて、暫く推し静めて、云フべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいひもし、行じもすべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-12
道元禅師は、人は身命を捨てることは中々しないけれども、いざとなれば、世間のことを思ってそれをする人や、名利心などのために身命を捨てるともしています。ただ、そのように外的な要因で行われた場合には、自分自身の心を調えることにはなりません。
よって、仏道を学ぶ者は、命を捨てるように決心し、その上で道理に契うかどうかを考えるべきだとしています。もし、道理に契えばそのことを言うべきでありますし、修行も進めるべきだとされます。
不惜身命という言葉があって、元々は『法華経』などにも見える言葉ですけれども、仏道を学ぶのであれば、余計な物は全て捨ててしまって良いのです。その時、初めて自分の心の純粋さに気付くことが出来るでしょう。
学者、命を捨ツると思ウて、暫く推し静めて、云フべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいひもし、行じもすべきなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-12
道元禅師は、人は身命を捨てることは中々しないけれども、いざとなれば、世間のことを思ってそれをする人や、名利心などのために身命を捨てるともしています。ただ、そのように外的な要因で行われた場合には、自分自身の心を調えることにはなりません。
よって、仏道を学ぶ者は、命を捨てるように決心し、その上で道理に契うかどうかを考えるべきだとしています。もし、道理に契えばそのことを言うべきでありますし、修行も進めるべきだとされます。
不惜身命という言葉があって、元々は『法華経』などにも見える言葉ですけれども、仏道を学ぶのであれば、余計な物は全て捨ててしまって良いのです。その時、初めて自分の心の純粋さに気付くことが出来るでしょう。