大島の空の下で

伊豆大島在住の中年のおっさんのブログです.日々の出来事を綴っていきます.一部は mixiとマルチポスティングしています.

もう25年 JAL123

2010-08-12 21:54:12 | Weblog
毎年思い出さずにはいられない日が今年も巡ってきました.当日の事はあれから25年たったのが信じられないくらい今でもよく覚えています.
あの日18時24分の事故発生から 18時56分までの32分間,何とか生還しようとダッチロールとフゴイト運動に翻弄される機体を懸命に制御した3名のコクピットクルーと墜落の恐怖にさらされながらもパニックに陥ることなくその時を迎えた517名の方々は御巣鷹の尾根で命を落としました.高浜機長らの行動は文字通り命がけ(懸命)の行為でした.当初ボイスレコーダーに残された彼の 「どーんといこうや」 の言葉が文章で発表されたため,あらぬニュアンスを持って受け取られましたがその後の音声の開示でクルー達の極限の努力が日の目を見たのでした.
http://sennin-no-kekkai.hp.infoseek.co.jp/video/jal123-voice-recorder.swf

ワタシが事故発生を知らされたのは墜落の30分後くらいだったと思います.当初墜落位置が群馬県大滝村(当時)付近との誤報が流れ機材搬送先を巡って若干の混乱があったものの翌朝には正確な位置が判明したので比較的スムーズに先発隊は出発していきました.ワタシは初動には参加しなかったので上野村の対策本部に出向いたのは事故から約一週間後でした.上野村役場に降り立つとほんの二山ほどの彼方で500名以上の方が亡くなったという現実が強くのしかかってきて,時を盛りのセミ時雨も耳に入らない妙に冷たくて暗い気持ちになりました.それは生まれてこの方一度も覚えたことのない感情でした.今でもこの時期になるとその感覚が蘇ってきます.たぶん極々軽いPTSDの一種なのだと思います.
今年の報道で初めて知ったことは事故時に交信相手だった所沢ACC(東京航空交通管制部)の管制官がワタシと同年代の方だったということです.当時29歳という年齢ながら終始冷静な対応につとめ途中から日本語使用の許可を出す,周波数変更する余裕のないコクピットの状況を見越してセクタ(交信空域)を超えても同一周波数を使用させ,他の機を異なる周波数に誘導するなどプロとして最後まで最善を尽くしたと思います.報道によると彼もPTSD様の心の傷があるように見受けられます.
最悪の状況に面したとき人は何ができるのか,この事故の関係者の方たちは総じて最善の努力をしたと思います.願はくば疑惑満載の事故原因についていつかスッキリした形で発表されることを期待します.

過去の関連記述

http://blog.goo.ne.jp/jr1uia/e/a6198f65fc388b0c20641c9f3e644ef0



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