今年も8月12日がめぐってきた.この日ばかりは戸外から聞こえてくる賑やかなセミの声が上野村で悄然とした気分で聞いたセミの声とダブリ気持ちが沈む.(*1)
この事故の原因については圧力隔壁の修理ミスという発表を漫然と受け入れていたのだけれどこれに大きな疑義が存在することを知った.出典は昨年の当日に放映された事故の再現ドラマで竹中直人氏が実名キャラで演じた藤田日出男氏の著作. (*2) 氏は故高浜雅巳機長と同時期JALの機長で現在「日本乗員組合連絡会議」事故対策委員をなさっている方.
詳述は出来ないが,要約すると圧力隔壁の破壊によるとされている墜落原因は捏造されたものであるとのこと.
説得力ある理由が縷々記述されているがその一つは生存者の証言や数々の傍証から隔壁破壊により生じるはずの急な減圧が無かったことが明らかなこととされている.
真の原因としては上部方向舵のフラッター発生を契機とした垂直尾翼の破壊が述べられている.フラッターとは制御不能な振動のこと.
ここからが大事なところなのだけれど,なにゆえ原因を真実から捻じ曲げて発表したのかというと,ボーイング社(=アメリカ)の強い意向を事故調が受け入れたためとされている.
原因がフラッターと断定された場合は機体に製造時からの欠陥があったことになるため,全世界のジャンボについても事故の可能性を疑う必要が発生する.ゆえにこの原因の採用は退けられたとのことだった.
1966年 羽田沖全日空B727墜落事故で機体の失速特性が原因であることが濃厚なのに操縦ミスが原因と発表した経緯も同様とある.
事故に至るプロセスの調査に政治の入り込む現実が存在するのか疑問もあったのだが昨今の牛肉輸入再開の経緯を見ていると充分考えられることと感じた.
(*2)
「あの航空機事故はこうして起きた」藤田日出男 著
新潮選書
(*1)
以下は昨年8月5日 mixiに書いた日記の再掲です
1985.8.12
そろそろ20年目が近づきました.当日はアチコチでこの件の発言があるでしょうから少し早めに当時の思い出をカキコします.
このころ,組合の役員をしていて,当日も終業後,組合事務所で役員仲間と用事を片づけながらダベっていた.
後で飲もうと誘っておいた係長が20時を過ぎても来ないので連絡をいれたら,ジャンボが行方不明になったらしいとのこと.大規模な事故の可能性があった.
当時は携帯はもちろん,SNGも出現以前のことです.
職場は災害用移動衛星通信設備のオペレートを担当している部署だったので,直ちにデスクに戻り,要員確保のためすでに帰宅したスタッフ宅に片端から連絡をいれた.そろそろお盆の時期で職場は手薄.なかなか数がそろわなかった.
翌日になって事故の全貌がわかったところで本格的に出動の準備が始まった.ところが現地までの資材の運搬ルートがよくわからなかった.
大組織のよくしたところで,別の部署だが新採スタッフのなかに上野村の出身者がいた.しかも村長の親戚.彼の案内で無事現地到着.設備は彼の卒業した小学校の校庭に設置した.3mΦのパラボラと送受信機や電源設備の入った2.5m立方ほどのコンテナ3個がおもな装備.新入社員の大殊勲だった.
当時日記をつける習慣が無かったので詳しい経緯は忘却のかなただが,救助作業や押し寄せたマスコミの素材出稿による桁ハズレのトラフィック増大を1ヶ月間ほどサポートしその後仮設の有線に譲ったと記憶している.ワタシ自身は初動には参加しなかったが翌年の一周忌の慰霊祭まで都合3回現地に行き設備のオペレートをした. 設営地となった小さな学校の裏には小川が涼やかに流れていたがここも血に染まったと聞いて粛然とした気持ちになった.
一周忌のテレビ中継作業に参加したときには慰霊の園が整備され,手を合わせた形をモチーフにした立派な慰霊碑が建立されていた.
http://www5f.biglobe.ne.jp/~amuran/houroutrab/mti1.JPG
http://www5f.biglobe.ne.jp/~amuran/houroutrab/houroutrab.html
犠牲者全員の名を彫ったプレートがあり,はじから名前を眺めていたら「大島」の字が目に付いた 「大島 九」 坂本九さんも犠牲者の中にいたのを思い出した.
犠牲者・遺族はもちろんだが,上野村は山あいの小さな村だったのでこの事故で住民や自治体にかかった負荷はたいへんなものだったろうと思う,石碑にきざまれた黒澤村長の追悼文はその突然の大迷惑を全身で受け止め慰霊する趣旨の心温まる文章だった.
なお慰霊の園は墜落現場ではなく村内の車で横付けできる場所にあります. もう二度と現地に行く機会はないと思うけど当地の特産だったイノブタの文字を何かの折に目にすると宿舎で食べたことを思い出します.
この事故の原因については圧力隔壁の修理ミスという発表を漫然と受け入れていたのだけれどこれに大きな疑義が存在することを知った.出典は昨年の当日に放映された事故の再現ドラマで竹中直人氏が実名キャラで演じた藤田日出男氏の著作. (*2) 氏は故高浜雅巳機長と同時期JALの機長で現在「日本乗員組合連絡会議」事故対策委員をなさっている方.
詳述は出来ないが,要約すると圧力隔壁の破壊によるとされている墜落原因は捏造されたものであるとのこと.
説得力ある理由が縷々記述されているがその一つは生存者の証言や数々の傍証から隔壁破壊により生じるはずの急な減圧が無かったことが明らかなこととされている.
真の原因としては上部方向舵のフラッター発生を契機とした垂直尾翼の破壊が述べられている.フラッターとは制御不能な振動のこと.
ここからが大事なところなのだけれど,なにゆえ原因を真実から捻じ曲げて発表したのかというと,ボーイング社(=アメリカ)の強い意向を事故調が受け入れたためとされている.
原因がフラッターと断定された場合は機体に製造時からの欠陥があったことになるため,全世界のジャンボについても事故の可能性を疑う必要が発生する.ゆえにこの原因の採用は退けられたとのことだった.
1966年 羽田沖全日空B727墜落事故で機体の失速特性が原因であることが濃厚なのに操縦ミスが原因と発表した経緯も同様とある.
事故に至るプロセスの調査に政治の入り込む現実が存在するのか疑問もあったのだが昨今の牛肉輸入再開の経緯を見ていると充分考えられることと感じた.
(*2)
「あの航空機事故はこうして起きた」藤田日出男 著
新潮選書
(*1)
以下は昨年8月5日 mixiに書いた日記の再掲です
1985.8.12
そろそろ20年目が近づきました.当日はアチコチでこの件の発言があるでしょうから少し早めに当時の思い出をカキコします.
このころ,組合の役員をしていて,当日も終業後,組合事務所で役員仲間と用事を片づけながらダベっていた.
後で飲もうと誘っておいた係長が20時を過ぎても来ないので連絡をいれたら,ジャンボが行方不明になったらしいとのこと.大規模な事故の可能性があった.
当時は携帯はもちろん,SNGも出現以前のことです.
職場は災害用移動衛星通信設備のオペレートを担当している部署だったので,直ちにデスクに戻り,要員確保のためすでに帰宅したスタッフ宅に片端から連絡をいれた.そろそろお盆の時期で職場は手薄.なかなか数がそろわなかった.
翌日になって事故の全貌がわかったところで本格的に出動の準備が始まった.ところが現地までの資材の運搬ルートがよくわからなかった.
大組織のよくしたところで,別の部署だが新採スタッフのなかに上野村の出身者がいた.しかも村長の親戚.彼の案内で無事現地到着.設備は彼の卒業した小学校の校庭に設置した.3mΦのパラボラと送受信機や電源設備の入った2.5m立方ほどのコンテナ3個がおもな装備.新入社員の大殊勲だった.
当時日記をつける習慣が無かったので詳しい経緯は忘却のかなただが,救助作業や押し寄せたマスコミの素材出稿による桁ハズレのトラフィック増大を1ヶ月間ほどサポートしその後仮設の有線に譲ったと記憶している.ワタシ自身は初動には参加しなかったが翌年の一周忌の慰霊祭まで都合3回現地に行き設備のオペレートをした. 設営地となった小さな学校の裏には小川が涼やかに流れていたがここも血に染まったと聞いて粛然とした気持ちになった.
一周忌のテレビ中継作業に参加したときには慰霊の園が整備され,手を合わせた形をモチーフにした立派な慰霊碑が建立されていた.
http://www5f.biglobe.ne.jp/~amuran/houroutrab/mti1.JPG
http://www5f.biglobe.ne.jp/~amuran/houroutrab/houroutrab.html
犠牲者全員の名を彫ったプレートがあり,はじから名前を眺めていたら「大島」の字が目に付いた 「大島 九」 坂本九さんも犠牲者の中にいたのを思い出した.
犠牲者・遺族はもちろんだが,上野村は山あいの小さな村だったのでこの事故で住民や自治体にかかった負荷はたいへんなものだったろうと思う,石碑にきざまれた黒澤村長の追悼文はその突然の大迷惑を全身で受け止め慰霊する趣旨の心温まる文章だった.
なお慰霊の園は墜落現場ではなく村内の車で横付けできる場所にあります. もう二度と現地に行く機会はないと思うけど当地の特産だったイノブタの文字を何かの折に目にすると宿舎で食べたことを思い出します.
風化させないように、心から祈っております。
TB、ありがとうございました。
飛行機と云うものは、あんなに大きな物体が
地球の重力に反して人間の夢を乗せて運ぶ、
とても不思議な乗り物ですね。
ですから、ふと気を許してしまったら防げる事故も
見落としてしまうかもしれません。
空の安全と航空の発展を心より願っています。
あの事故は当時から随分と疑惑の多い事件でしたね。
こちらで当時の現場に関わられた体験談等読ませて頂き、また新たに考えさせられることがいろいろとありました。お礼申し上げます。
当時は、何よりも事故の規模の大きさに驚き、なぜこのような大惨事が、と調査結果の新聞記事等を真剣に読んだものでしたが、あとになればなるほど、様々な問題点や矛盾点が出てきたことで、いっそう、日航123便のことが忘れられなくなりました。
報道というのは、良心的なものもある一方で、権威あるところから発表された事柄でも、全く鵜呑みに出来ないようなものもあるのだと、つくづく思いました。
私は、鬱病を患い。その時、折れた尾翼に出会いました。
そして、高浜雅巳機長のどーんといこうや!の言葉で自殺を止まりました。
高浜雅巳の最後まで諦めない心を大切に持ちたかったから。
ただ、それだけで私は生きています。
ご遺族の方が、見たいましたら4名の人間だけではなく、もっと多くの人間を助けたと思っていただければ幸いです。
最後に、高浜雅巳と死を供にした方々に、ご冥福をお祈りもし上げます。