ワタシの住む伊豆大島は東京から約120km南にあります.1986年に三原山が噴火し当時1万人いた全島民が避難して耳目を集めました.そこからさらに60km南方にある三宅島も伊豆諸島ではよく噴火する島のひとつです.
近年では1962年に三七山が出現した側噴火.1983年には阿古地区の7割を溶岩で埋め尽くすという甚大な被害を出した雄山大噴火.そしてそれからわずか17年後の2000年にも噴火し,4年間に及ぶ全島民避難が終結した現在も活発な火山性ガスの噴出が続くという活動的な火山島です.後の二回の噴火ではどちらも災害対策活動に携わりましたが今日は1983年の噴火日の翌々日に当たるので当時の記憶を少したどってみます.
三宅島の雄山は1983年10月3日の午後,突然大量の溶岩の噴出を伴う噴火を始めました.退勤時刻間際,テレビニュースが飛び込んできました.山腹を川のように流れる溶岩の映像を見てから帰途に着いたのですが.帰りがけに上司に「まさか明日出動になったりして…」と軽口をたたいたことをはっきりと覚えています.当時の勤務先には導入されたばかりの災害対策用の機器があったのですが,運用実績はまだなくお飾り状態.実際に使用することになるとは思っていなかったのです.
翌10月4日.出社したら管理職1名,先輩1名とともに準備を整えて横須賀の自衛隊基地へ向えとの指示.「アララッ!」です.あわてて家内に電話し,当面の着替えを中野駅付近の勤務先まで持ってきてもらいました.この一件以来勤務先のロッカーには最低限の着替えを保管するようになりました.
別働隊が都内に保管してあった機材を陸路搬送し,我々3名は京急久里浜行きで基地に向かいました.積み込み等の準備が済んだ17時頃,薄暮の横須賀を出航.使用艦はLST4101あつみ.我々3名のためだけの貸し切り航海の始まりです.
LSTは敵前揚陸という過酷な任務を持つ輸送艦です.WWⅡでは多くのLSTが作戦中にビーチで鉄くずに変わり果てました.
船腹内の巨大な戦車置き場には我々の機材がポツンとあるだけ.居室として揚陸部隊用のカイコ棚と呼ばれるベッドが並ぶ長い部屋を3名専用に割り当ててもらいました.ベッド下段には酒保用の缶ビールがぎっしり.案内してくれた甲板長の「ご自由に」のお言葉に甘えて勝手にいただくことにしました.ただし冷えていない.
出航直後に士官食堂で夕食をいただきました.食器の下に濡れフキンを敷くのが海自流.こうすれば艦が傾いても食器がズレません.21時過ぎにまた食事.今度はサンドイッチのみの軽食でした.船乗りは日に4食という話をドクトルマンボウ航海記で読んだことがあったのですがこの時あの話はホントだったんだ,といたく感心しました.
あつみは米国から小笠原諸島の返還を受けるに当たって島に駐留する分遣隊の補給用に計画された艦です.ビーチングのために鑑底はマッタイラ.波を切るというよりは波に乗っかる感じで直下型地震のような揺れ方をします.船足は快速とは程遠く14ノットでユッタリと進みます.出航時は三宅島・八丈島のどちらに行くか決まっていなかったのですが夕食が済んだ頃,八丈島行きが決定したとの連絡が入りました.
艦長は3佐の方でした.艦内の通路脇に掲示してあった要員配置表には各担当の階級が表示してありました.それによると本来は2佐が艦長となる船のようです.ブリッジでは軍艦のお約束どおり左舷に司令官用のやたら足の高いスツールがありました.当然ながら今回はソロ航海なのでここには艦隊司令ではなく艦長が座っていました.
LSTとはlanding ship. tankの略称で日本語では戦車揚陸艦と呼びます.我々の子守をしてくれたボースン(甲板長)には艦内案内とともにビーチング(着底乗り上げ)は引き潮の時に行う.そうしないと海に戻れなくなる.などといったこの艦の極初歩的な運用方法を教えてもらいました.
10月5日払暁八丈島到着.ビーチングして艦前面の扉を開いて機材を下ろすのかと思ったら,ちゃんと着岸して機材をクレーンで下ろしたのでちょっとがっかりしました.機材は4トンロングの改造トラック2台と衛星回線用のパラボラや送受信機です.三宅島の噴火で八丈島まで連なるマイクロウェーブや海底ケーブルが切れて八丈島が孤立することに備え,島の職員の方たちと協力して衛星回線を作成しミッション終了しました.
今から28年前の今夜(10月5日)は作業が一段落し八丈島底土港付近のスナックで一人水割りを飲んでいたと思います.
近年では1962年に三七山が出現した側噴火.1983年には阿古地区の7割を溶岩で埋め尽くすという甚大な被害を出した雄山大噴火.そしてそれからわずか17年後の2000年にも噴火し,4年間に及ぶ全島民避難が終結した現在も活発な火山性ガスの噴出が続くという活動的な火山島です.後の二回の噴火ではどちらも災害対策活動に携わりましたが今日は1983年の噴火日の翌々日に当たるので当時の記憶を少したどってみます.
三宅島の雄山は1983年10月3日の午後,突然大量の溶岩の噴出を伴う噴火を始めました.退勤時刻間際,テレビニュースが飛び込んできました.山腹を川のように流れる溶岩の映像を見てから帰途に着いたのですが.帰りがけに上司に「まさか明日出動になったりして…」と軽口をたたいたことをはっきりと覚えています.当時の勤務先には導入されたばかりの災害対策用の機器があったのですが,運用実績はまだなくお飾り状態.実際に使用することになるとは思っていなかったのです.
翌10月4日.出社したら管理職1名,先輩1名とともに準備を整えて横須賀の自衛隊基地へ向えとの指示.「アララッ!」です.あわてて家内に電話し,当面の着替えを中野駅付近の勤務先まで持ってきてもらいました.この一件以来勤務先のロッカーには最低限の着替えを保管するようになりました.
別働隊が都内に保管してあった機材を陸路搬送し,我々3名は京急久里浜行きで基地に向かいました.積み込み等の準備が済んだ17時頃,薄暮の横須賀を出航.使用艦はLST4101あつみ.我々3名のためだけの貸し切り航海の始まりです.
LSTは敵前揚陸という過酷な任務を持つ輸送艦です.WWⅡでは多くのLSTが作戦中にビーチで鉄くずに変わり果てました.
船腹内の巨大な戦車置き場には我々の機材がポツンとあるだけ.居室として揚陸部隊用のカイコ棚と呼ばれるベッドが並ぶ長い部屋を3名専用に割り当ててもらいました.ベッド下段には酒保用の缶ビールがぎっしり.案内してくれた甲板長の「ご自由に」のお言葉に甘えて勝手にいただくことにしました.ただし冷えていない.
出航直後に士官食堂で夕食をいただきました.食器の下に濡れフキンを敷くのが海自流.こうすれば艦が傾いても食器がズレません.21時過ぎにまた食事.今度はサンドイッチのみの軽食でした.船乗りは日に4食という話をドクトルマンボウ航海記で読んだことがあったのですがこの時あの話はホントだったんだ,といたく感心しました.
あつみは米国から小笠原諸島の返還を受けるに当たって島に駐留する分遣隊の補給用に計画された艦です.ビーチングのために鑑底はマッタイラ.波を切るというよりは波に乗っかる感じで直下型地震のような揺れ方をします.船足は快速とは程遠く14ノットでユッタリと進みます.出航時は三宅島・八丈島のどちらに行くか決まっていなかったのですが夕食が済んだ頃,八丈島行きが決定したとの連絡が入りました.
艦長は3佐の方でした.艦内の通路脇に掲示してあった要員配置表には各担当の階級が表示してありました.それによると本来は2佐が艦長となる船のようです.ブリッジでは軍艦のお約束どおり左舷に司令官用のやたら足の高いスツールがありました.当然ながら今回はソロ航海なのでここには艦隊司令ではなく艦長が座っていました.
LSTとはlanding ship. tankの略称で日本語では戦車揚陸艦と呼びます.我々の子守をしてくれたボースン(甲板長)には艦内案内とともにビーチング(着底乗り上げ)は引き潮の時に行う.そうしないと海に戻れなくなる.などといったこの艦の極初歩的な運用方法を教えてもらいました.
10月5日払暁八丈島到着.ビーチングして艦前面の扉を開いて機材を下ろすのかと思ったら,ちゃんと着岸して機材をクレーンで下ろしたのでちょっとがっかりしました.機材は4トンロングの改造トラック2台と衛星回線用のパラボラや送受信機です.三宅島の噴火で八丈島まで連なるマイクロウェーブや海底ケーブルが切れて八丈島が孤立することに備え,島の職員の方たちと協力して衛星回線を作成しミッション終了しました.
今から28年前の今夜(10月5日)は作業が一段落し八丈島底土港付近のスナックで一人水割りを飲んでいたと思います.
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます