★長塚演出で「最前列」はキツイっす(ぜいたくだな)
「最前列がどーした!」純粋な(ってなんだ?)芝居ファンにはそう言われちゃいそうですが、今回の『ウィー・トーマス』(7月7日19時開演、パルコ劇場)は最前列でした。
ご存知の方も多いと思いますが、パルコ劇場の座席は前から、X、Y、Z列で始まり、そのあとA、B、C列……、と続くんですよね。で、そのX列のほぼ中央の席で観劇してしまったというわけです。
私としては「芝居で最前列」というのが別に最高!だと言っておりわけではなくて(生涯で一度だけでも「スピッツライブで最前列だー!」は経験して見たいけど。笑)、この長塚圭史演出で最前列っていうのはどうなの?という恐れだったわけで。だって、グロテスクの極みを、リアルな表現を追及しているような人ですよ。ちなみに『悪魔の唄』では、太陽のもとでは体が徐々に(急速に?)腐敗してしまう旧日本兵が舞台上をウロウロ精力的に動いていたし、『LAST SHOW』では、人に食われたネコが見事に反吐が出るほどリアルだったし、『桜飛沫』では、記憶は定かではないけれど、普通の市井の人たちが明るく蹴鞠をしていたもんです、生きたネコで……。それらの芝居はだいたい前から7~8列目くらいで観て、ああ、この人の芝居はこれ以上前では観たくないな、と思っていたんですよね、私。ホラーとか、大の苦手ですし。
ところが今回そういうわけで最前列をゲットし、開始2時間くらい前からヘンな緊張感だった上に、行ってみたら前から4列目くらいまでの座席にはビニールシートがそれぞれ置いてあって、「演出上、淡い色のついた液体が飛ぶおそれがあります」と書いてある……、となれば、私の中での異様な盛り上がりもわかっていただけますか? 歌舞伎の『女殺油地獄』では、江戸時代の悩めるプータローの与兵衛(孝夫時代の現片岡仁左衛門がよかったです)が無心を断られて油屋の奥さんを殺してしまう場面で、油に見立てた水が勢いよく客席にも飛んできて気持ちよかったが、歌舞伎はあくまで様式美。長塚演出はこうはいかんでしょ。
というわけで、芝居が始まって、でかい音がするたびに体をピクッと反応させ、残忍な場面には激しくのけぞっていた私の後ろ姿を見ていた人は、結構おもしろかったのではないか、と思うのですが。
★舞台からはみでそう! はじけてる役者たち
前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に。
で、役者たちがいいです、と素人の私にも言わせてください。長塚が「今いちばん一緒に仕事がしたい人たち」と発言し、パンフのコピーのフレーズに「今いちばんエッジのきいた役者たち」と書かれているだけのことはあるんじゃないかな。どんなに激しく交わされようと、セリフと動きが違和感なく重なり、一見無秩序に見えながら、不思議にちゃんと流れがあり、ワサワサ感を感じさせない。ま、これは役者の演技力、というより、長塚の演出力ってことなのかもしれないけど。
1993年、アイルランドのとある島が舞台。アイルランドの独立を目指すIRA(アイルランド共和国軍)から分裂した過激派グループILNA(アイルランド国民解放軍)のメンバーで、血気盛んなパドレイク(というより、この「瞬間湯沸し器」の残忍男はどこか心を病んでいる気がするけど)を演じるのは高岡蒼甫。テレビや映画では端正な顔が印象的だったが、この舞台ではその美しさと残忍きわまりない言動が対曲線にあればあるほど怖い。内面的には5歳の頃から15年間飼っているネコを唯一の友だちとしている幼さを抱えているのだが、そういう面より怒りをあらわにしているときのほうが現実感がある。これってどういうことだろう。かわいさを全面に出す場面のほうが作り事めいてしまう。実際の自分からかけ離れた、あるいは自分にはない面を演じるほうが楽なのかもしれない。でも彼の内面から沸々と湧き上がってくるような怒りがまっすぐに伝わってくる感じ。
パドレイクにひかれ、自分もILNAのメンバーとなって闘うことを望んでいるパンキッシュな女の子マレード(遠く離れたところから牛の目を撃ってしまうほどの射撃の名手なんだけど)は若い岡本綾。怖いんだな、これが。若い少女の一途さって、もう怖いもの知らず。そういう危うさやら、残酷さやら、十分伝わってくる迫力でした。
そして、パドレイクの仲間で彼の暗殺を企てるクリスティー役の堀部圭亮。私の中ではどうしても「笑っていいとも」のイメージが強いのですが、最近の舞台での存在感、結構すごい。今回も、リーダーシップをとりながら実は軽薄で気弱なヘンテコなキャラをすごく魅力的に演じていて迫力あり。
そして、少し前、私生活で話題をさらっていた木村祐一はパドレイクの父親で、善良そうに見えるんだけど長いこと母親を虐待していたという過去をあわせもっている役。息子の行動に翻弄されるばかりなんだけど、どんなに悲惨な場面にあろうと、表情がどこか自然で、恐怖の顔つきを作らないとこがいい。いい味出していて、役者としては初めて見たのですが、ちょっとファンになりました、面食いの私が(笑)。
そして、パドレイクの幼なじみ、マレードの兄で、舞台ではパドレイクと父親とともに転落と混乱に翻弄されるデイヴィー役の少路勇介。今回、私的にはいちばんおもしろかったかな。長い髪で少々ホモっぽい佇まいなんだけど、この中ではいちばんまともな思考の持ち主。その普通さが、でもとても際立って個性的でチャーミングで印象的でした。もう悲惨な状況に舞台狭しと駆けずり回り、鼻水ウィたらさんばかりの演技に、いつの間にか引き込まれていました。大人計画所属の役者さんです。
★ブラックユーモア OK な社会
それにしても凄まじい舞台。結局出演者の過半数が死に、そのうち三人の死体は目の前でバラバラに解体される。死体の顔は登場人物そっくりに作られているから、首が軽くもぎれたときは心底驚いた。心臓に悪かった。登場人物の中でもまともなはずだったパドレイクの父親とデイヴィーが脅かされ命令されたとはいえ、死体解体を始めて、アドリブなのかもしれないけど軽妙な演技で作業を進めていく。
ところで、「ウィー・トーマス」とは、パドレイクが5歳のときから溺愛していたネコの名前。そのネコが死んだことが発火点となって、歯車が狂うように坂道を、それも激しく急な坂道を滑り落ちていくわけだが、オチはそのネコが実は生きていたということ(本物のネコが見事な演技?をします)、死んだネコはウィー・トーマスじゃなかったということです。そんな勘違いの末に4人の男が命を落としたというわけ。
ええーっ!!とあっけにとられ、ああ、こんな極端なことではなくても、似たようなことって日常生活でもあるなあ、でも、これは悲惨だぞ、なんじゃ……。そんなふうに感じて、なんだか重くなった体をどうにか座席から立たせたのです。
こういうブラックユーモアが普通に作り物として、何かを表現するためのスキルとして扱われ、それがそのまま観客を通して社会に受け入れられる……、そういう社会は「成熟した社会」といえるんだろう。この残忍さに刺激され影響された人が何かをしでかす可能性もある、として制限が加えられたりする社会は未熟であり危うさを秘めているということになるのかな。
全然意味は違うかもしれないけど、西部劇やチャンバラ時代劇は、アメリカでも日本でも、ただの娯楽映画として問題なかったんだろうし(だから、あの頃の社会がよかったのか?というわけではないけど)。
今の日本はどうなんでしょう。私たちの社会は「健康的に」ブラックユーモアを受け入れる余裕があるといえるんだろうか。みなさんはどう思います?
そうそう、今回は翻訳劇ですけど、長塚氏の作品ではネコが小道具になっていたり、物語の導入やエピソードになっていたりすることって多いんですか。『LAST SHOW』の食われるネコは目をそむけたくなるくらいリアルでしたよね。
長塚氏はネコが好きなんでしょうか、あるいは嫌いなの? などと瑣末なことを今考えている私です(笑)。
ああ、最後まで読んでくださった方、お疲れさまでした。そしてどうもありがとう。
「最前列がどーした!」純粋な(ってなんだ?)芝居ファンにはそう言われちゃいそうですが、今回の『ウィー・トーマス』(7月7日19時開演、パルコ劇場)は最前列でした。
ご存知の方も多いと思いますが、パルコ劇場の座席は前から、X、Y、Z列で始まり、そのあとA、B、C列……、と続くんですよね。で、そのX列のほぼ中央の席で観劇してしまったというわけです。
私としては「芝居で最前列」というのが別に最高!だと言っておりわけではなくて(生涯で一度だけでも「スピッツライブで最前列だー!」は経験して見たいけど。笑)、この長塚圭史演出で最前列っていうのはどうなの?という恐れだったわけで。だって、グロテスクの極みを、リアルな表現を追及しているような人ですよ。ちなみに『悪魔の唄』では、太陽のもとでは体が徐々に(急速に?)腐敗してしまう旧日本兵が舞台上をウロウロ精力的に動いていたし、『LAST SHOW』では、人に食われたネコが見事に反吐が出るほどリアルだったし、『桜飛沫』では、記憶は定かではないけれど、普通の市井の人たちが明るく蹴鞠をしていたもんです、生きたネコで……。それらの芝居はだいたい前から7~8列目くらいで観て、ああ、この人の芝居はこれ以上前では観たくないな、と思っていたんですよね、私。ホラーとか、大の苦手ですし。
ところが今回そういうわけで最前列をゲットし、開始2時間くらい前からヘンな緊張感だった上に、行ってみたら前から4列目くらいまでの座席にはビニールシートがそれぞれ置いてあって、「演出上、淡い色のついた液体が飛ぶおそれがあります」と書いてある……、となれば、私の中での異様な盛り上がりもわかっていただけますか? 歌舞伎の『女殺油地獄』では、江戸時代の悩めるプータローの与兵衛(孝夫時代の現片岡仁左衛門がよかったです)が無心を断られて油屋の奥さんを殺してしまう場面で、油に見立てた水が勢いよく客席にも飛んできて気持ちよかったが、歌舞伎はあくまで様式美。長塚演出はこうはいかんでしょ。
というわけで、芝居が始まって、でかい音がするたびに体をピクッと反応させ、残忍な場面には激しくのけぞっていた私の後ろ姿を見ていた人は、結構おもしろかったのではないか、と思うのですが。
★舞台からはみでそう! はじけてる役者たち
前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に。
で、役者たちがいいです、と素人の私にも言わせてください。長塚が「今いちばん一緒に仕事がしたい人たち」と発言し、パンフのコピーのフレーズに「今いちばんエッジのきいた役者たち」と書かれているだけのことはあるんじゃないかな。どんなに激しく交わされようと、セリフと動きが違和感なく重なり、一見無秩序に見えながら、不思議にちゃんと流れがあり、ワサワサ感を感じさせない。ま、これは役者の演技力、というより、長塚の演出力ってことなのかもしれないけど。
1993年、アイルランドのとある島が舞台。アイルランドの独立を目指すIRA(アイルランド共和国軍)から分裂した過激派グループILNA(アイルランド国民解放軍)のメンバーで、血気盛んなパドレイク(というより、この「瞬間湯沸し器」の残忍男はどこか心を病んでいる気がするけど)を演じるのは高岡蒼甫。テレビや映画では端正な顔が印象的だったが、この舞台ではその美しさと残忍きわまりない言動が対曲線にあればあるほど怖い。内面的には5歳の頃から15年間飼っているネコを唯一の友だちとしている幼さを抱えているのだが、そういう面より怒りをあらわにしているときのほうが現実感がある。これってどういうことだろう。かわいさを全面に出す場面のほうが作り事めいてしまう。実際の自分からかけ離れた、あるいは自分にはない面を演じるほうが楽なのかもしれない。でも彼の内面から沸々と湧き上がってくるような怒りがまっすぐに伝わってくる感じ。
パドレイクにひかれ、自分もILNAのメンバーとなって闘うことを望んでいるパンキッシュな女の子マレード(遠く離れたところから牛の目を撃ってしまうほどの射撃の名手なんだけど)は若い岡本綾。怖いんだな、これが。若い少女の一途さって、もう怖いもの知らず。そういう危うさやら、残酷さやら、十分伝わってくる迫力でした。
そして、パドレイクの仲間で彼の暗殺を企てるクリスティー役の堀部圭亮。私の中ではどうしても「笑っていいとも」のイメージが強いのですが、最近の舞台での存在感、結構すごい。今回も、リーダーシップをとりながら実は軽薄で気弱なヘンテコなキャラをすごく魅力的に演じていて迫力あり。
そして、少し前、私生活で話題をさらっていた木村祐一はパドレイクの父親で、善良そうに見えるんだけど長いこと母親を虐待していたという過去をあわせもっている役。息子の行動に翻弄されるばかりなんだけど、どんなに悲惨な場面にあろうと、表情がどこか自然で、恐怖の顔つきを作らないとこがいい。いい味出していて、役者としては初めて見たのですが、ちょっとファンになりました、面食いの私が(笑)。
そして、パドレイクの幼なじみ、マレードの兄で、舞台ではパドレイクと父親とともに転落と混乱に翻弄されるデイヴィー役の少路勇介。今回、私的にはいちばんおもしろかったかな。長い髪で少々ホモっぽい佇まいなんだけど、この中ではいちばんまともな思考の持ち主。その普通さが、でもとても際立って個性的でチャーミングで印象的でした。もう悲惨な状況に舞台狭しと駆けずり回り、鼻水ウィたらさんばかりの演技に、いつの間にか引き込まれていました。大人計画所属の役者さんです。
★ブラックユーモア OK な社会
それにしても凄まじい舞台。結局出演者の過半数が死に、そのうち三人の死体は目の前でバラバラに解体される。死体の顔は登場人物そっくりに作られているから、首が軽くもぎれたときは心底驚いた。心臓に悪かった。登場人物の中でもまともなはずだったパドレイクの父親とデイヴィーが脅かされ命令されたとはいえ、死体解体を始めて、アドリブなのかもしれないけど軽妙な演技で作業を進めていく。
ところで、「ウィー・トーマス」とは、パドレイクが5歳のときから溺愛していたネコの名前。そのネコが死んだことが発火点となって、歯車が狂うように坂道を、それも激しく急な坂道を滑り落ちていくわけだが、オチはそのネコが実は生きていたということ(本物のネコが見事な演技?をします)、死んだネコはウィー・トーマスじゃなかったということです。そんな勘違いの末に4人の男が命を落としたというわけ。
ええーっ!!とあっけにとられ、ああ、こんな極端なことではなくても、似たようなことって日常生活でもあるなあ、でも、これは悲惨だぞ、なんじゃ……。そんなふうに感じて、なんだか重くなった体をどうにか座席から立たせたのです。
こういうブラックユーモアが普通に作り物として、何かを表現するためのスキルとして扱われ、それがそのまま観客を通して社会に受け入れられる……、そういう社会は「成熟した社会」といえるんだろう。この残忍さに刺激され影響された人が何かをしでかす可能性もある、として制限が加えられたりする社会は未熟であり危うさを秘めているということになるのかな。
全然意味は違うかもしれないけど、西部劇やチャンバラ時代劇は、アメリカでも日本でも、ただの娯楽映画として問題なかったんだろうし(だから、あの頃の社会がよかったのか?というわけではないけど)。
今の日本はどうなんでしょう。私たちの社会は「健康的に」ブラックユーモアを受け入れる余裕があるといえるんだろうか。みなさんはどう思います?
そうそう、今回は翻訳劇ですけど、長塚氏の作品ではネコが小道具になっていたり、物語の導入やエピソードになっていたりすることって多いんですか。『LAST SHOW』の食われるネコは目をそむけたくなるくらいリアルでしたよね。
長塚氏はネコが好きなんでしょうか、あるいは嫌いなの? などと瑣末なことを今考えている私です(笑)。
ああ、最後まで読んでくださった方、お疲れさまでした。そしてどうもありがとう。