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■「世界一優秀で、世界一自分に自信がない」日本人女性の不思議――私が渡米して気付いた“大和撫子”の本質【橋本智恵さん】 [女の転職type] Woman type (キャリアデザインセンター)

2022-03-20 05:16:46 | 日記

 

■「世界一優秀で、世界一自分に自信がない」日本人女性の不思議――私が渡米して気付いた“大和撫子”の本質【橋本智恵さん】

[女の転職type] Woman type (キャリアデザインセンター)

https://woman-type.jp/wt/feature/12441/


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・世界トップクラスの学力を持つ日本人女性。でも、「自信のなさ」も世界一


私は日本で生まれ育ち、日本で約8年働いてきました。

アメリカに住み始めて3年になりますが、日本には「完璧主義」が蔓延していると、つくづく思い知らされます。


今の20~30代って、「正解は一つ」という学校教育を受けてきた世代。

私も日本で仕事をしていた時は、「何もかもちゃんと説明できるようにしなきゃ」「答えがなければダメだ」と思っていました。


でも、これだけ目まぐるしく世の中が変わっていく中で、全ての事象を説明することなんて不可能。

答えを求められても分からなくて当たり前です。


分かったようなスタンスを取る必要すらないと思います。

ミネルヴァ大学での学びを通して、世の中の「曖昧さ」や、人間の「曖昧さ」をある程度受け入れることの重要性に気がつきました。


「日本の女性は世界で一番自己肯定感が低い」というデータがあります。

その一方で、日本の女性の学力は、PISAなどの結果を見ても世界トップクラス。


高い能力を持ちながら、自信が全くないのが日本人女性なのです。

それって何だか変ですよね。


その理由を考えてみると、かつての私がそうだったように、“完璧主義”が日本の女性の自己肯定感を低くしているのではないかと感じます。

自信の無さは、女性たちからチャレンジする気持ちを奪ってしまう。


そして、自分の才能を自ら潰し、ポテンシャルを下げてしまう。

それはすごくもったいないことですよね。

 

・意思決定の場に女性がいない。それが“当たり前”でいいわけがない。


また、「イノベーションにはダイバーシティーが必要条件である」ということも、アメリカ社会で暮らす中で痛感しています。


しかし、日本ではそれがあまり理解されていません。

アイデアを考える場や、重要な意思決定の場に、女性がほとんどいない。


それが当たり前になってしまっているからです。

そして、女性自身がその状態を「普通」だと思ってしまっていることに、私は大きな危機感を抱いています。


このままでは女性の立場は低いまま、ずっと変わりません。

それどころか、ますますその地位は貶められていく可能性もあります。


私がなぜそう思うのか、シリコンバレーで起きている例をご紹介しますね。

今、AIやブロックチェーンといった、社会に大きなインパクトを与えるテクノロジーの研究が進んでいます。


でも、そういった研究を中心となって担っているのは白人男性です。

すると、彼らが作るAIの顔認証システムでは、アジア人や黒人女性の顔が誤って白人男性に認識されてしまう、なんてことが既に起きてしまっています。


世界の人口構成を研究チームの人員に反映しなければ、このような偏りが生じてしまったり、システムの設計が研究者など設計者側の多数決で決まった仕様となってしまうのです。

これからテクノロジーが進化して世の中は便利になっていくというのに、女性の地位は今のままか、ますます低くなってしまうことがあり得るのです。


これからの世の中では、あらゆる属性の人が共存する組織の中で自分の意見をはっきりと伝える力がますます重要となります。

また、そうした未来を見据え、初等・中等教育の場では「正解のための答え探し」をやめ、「説明のつかない複雑な事象に対し、自分はどう考えるのか」を議論する方向に学習内容をシフトしてきているのです。


つまり、「多様であること」「自分の意見を言うこと」が当たり前という世代の人たちと、近い未来一緒に働く日がやってくるということ。

その時、皆さんは彼・彼女たちをマネジメントできますか?


今から意識して自分の意見を言うこと、他者の意見を聞き、尊重し、複雑な課題に向かっていく訓練をしなければ、ビジネスの場に居場所がなくなってしまうかもしれません。

 

・協調・同調が美徳だと私たちの脳には刻み込まれている。でも、一度それを疑ってみて。


日本の女性たちは、自分の意見をはっきり相手に伝えるのが苦手な傾向があります。

それも当然。協調、同調が大事だと教育の中で教えこまれてきたのですから。


でも、それではもう立ち行かないところまで私たちは来ています。

私自身、周囲の空気を読み過ぎて言いたいことが言えず、中学生の時に不登校状態になってしまったことがありました。


声をあげずに我慢していたら、いつの間にか自分だけがすごく不利な立場になってしまっていたんです。

それと同じことが、起こり得ると思います。


やりたいことや好きなことを思い切ってやる。

自分なりの考えを話してみる――。


今の20~30代の人はそういう教育を受けていないから、最初はうまくできないかもしれません。

でも、場数を踏んで練習することで、必ず上達していくはずです。


その時に大切なのが、「正解を言わなきゃ」と思わないこと。

意見に正解も間違いもないですから、自分なりの考えを言ってみることが重要です。


そのためにおすすめなのが、旅に出て、できるだけ多様性の中に自分の身を置くことです。

少し突拍子もなく聞こえるかもしれません。


でもこれ、すごく効果がありますよ。

日本にいると、「日本人の常識に沿って話そう」という意識はなかなか抜けません。


その中で本来の自分らしさを出すのは難しいけれど、旅先の全く違う環境にいる人たちと話せば、余計なことを気にせず、個人としての発言が自由にできます。

旅に行かなくたって、年齢が多様な場や職業が多様な場など、とにかく参加者がミックスした場にいくと良いと思います。


国籍×年齢×職業ミックスなど多様なところに行けば行くほど、自分自身の個人の見解が問われる場が多くなるんです。

私は20歳の時に半年間、世界中から集まった学生とインドで家を一軒借りて10人くらいでルームシェアをしたことがあるのですが、突拍子もないことを言う人がいても、みんな普通に耳を傾けています。


「その考えは違う!」なんて言われることはまずありません。

ダイバーシティーに触れていれば、みんな違う意見を持っているのが自然だということが理解できる。


「私の考えを言ってもいいんだ」って、徐々に自信を持てるようになると思うんです。

それが分かれば人の意見に流されないし、自分の考えを発信した分だけ、人の意見も尊重できるようになる。


人の意見を見下す人も時にはいますが、それは自分の意見を持っていない証拠だと私は思っています。

 

大和撫子は、ただの“おとなしい人”じゃない。


「私にはやりたいことがない」「自分が好きなことが分からない」

そんな悩みを持っている人も、多いかもしれませんね。


でも、誰でも自分なりの好みや考えを持っているものです。

では、どうすれば自分の意見が見えてくるのか。


その方法は簡単。

自分自身に“Why”を5回、ぶつけてみてください。


プリファレンス(好み)を突き詰めていけば、自分の考えが見えてきます。

例えば、「将来が不安だから、何か資格でも取った方がいいのかな……」と思った時。


「そもそも、何で資格が必要だと思ったんだろう? 長く働きたいから?」、「なんで自分は、長く働きたいんだろう?」といった具合に、質問をさらに重ねていく。

すると、自分の心の奥に潜んでいる考えがクリアになっていきます。


自分の意見をはっきりさせ、声を大にして発信すると、もしかしたら他者から批判されることもあるかもしれません。

でも、そんなの気にしなくていい。女性が自分の意見を発信し、力をつけていけば、世の中はきっとさらに進歩する。


女性にとっても男性にとっても生きやすい未来がつくられていくはずです。

最後に、明治、大正時代の女性たちのことを少しお話させてください。


当時の近代国家であるアメリカやイギリスと同じ時期に、日本の婦人運動は起きているのをご存知でしょうか。

津田梅子や平塚らいてうといった女性が広く知られていますが、自分たちの権利を獲得するために立ち上がった大和撫子たちは、ただの“おとなしい人”じゃありませんでした。


時代の変化を見据え、自分たちのあるべき姿を考え、批判を恐れず声を上げたのです。

その結果、世の中は大きく変わった。


今の日本人女性だって、彼女たちのように、もっとワイルドになっていい。

私はそう思います。


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「世界一優秀で、世界一自分に自信がない」日本人女性の不思議――私が渡米して気付いた“大和撫子”の本質【橋本智恵さん】
[女の転職type] Woman type (キャリアデザインセンター)
https://woman-type.jp/wt/feature/12441/


■坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード exciteニュース 2021年9月28日 Japaaan

2022-03-20 05:16:30 | 日記

 

■坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード

exciteニュース 2021年9月28日 Japaaan

https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_159518/


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幕末志士を語る上で、欠かすことのできないキャラとして人気を集めている坂本龍馬(さかもと りょうま)。

その龍馬を語る上で、幼少期から巣立ち(脱藩)を見守り、天下へ送り出して行った姉・坂本乙女(さかもと おとめ)の存在もまた欠くべからざるものです。

今回は龍馬を維新の英雄に育て上げた乙女のエピソードを紹介したいと思います。

 

・文武両道の女傑、龍馬の母代わりに


坂本乙女は江戸時代末期の天保3年(1832年)、土佐藩郷士の坂本直足(なおたり。八平)と坂本幸(こう)の三女として誕生しました。

本名は留(とめ)、これは当時よくあった「もう女児は留め=止めにせよ=要らない」という意味ですが、愛称の「お留」を美しく乙女と当て字。

また、乙女で「とめ」と読ませることもあったそうです。

5人兄弟姉妹の4番目(男、女、女、乙女、龍馬)で上3人の兄姉とは一回りほども歳が離れており、そのためか年齢の近い龍馬(天保6・1836年生まれ)とは仲良しでした。

やがて弘化3年(1846年)に母が亡くなると龍馬の母親代わりを自任。

「立て、それでも男か!」

「乙女姉ちゃ、もう堪忍じゃき……」

乙女は父親から教わった諸般の武芸(剣術、馬術、弓術、水練など)や書道、和歌などを叩きこみ、当時は甘え癖に由来すると考えられた寝小便(よばあたれ)も直しました。

「まだまだ!」

そんな乙女は身の丈五尺八寸(約175センチ)、目方は三十貫(約112キロ)という大柄で、下手な男性よりもよほどガタイがよかったそうです。

「あげなジャジャ馬に、嫁の貰い手があるじゃろうか……」

家族が心配するほどの女傑だった乙女に縁談が来たのは安政3年(1856年)、土佐藩典医・岡上樹庵(おかのうえ じゅあん。新甫)の後妻に迎えられたのでした。

……が。どうも相性が悪かったのか、あまりの女傑ぶりがお気に召さなかったのか、樹庵の浮気や家庭内暴力などが原因で慶応3年(1867年)に離婚して実家へ帰ります。

この年、龍馬が暗殺されてその妻であるお龍(りょう)が身を寄せて来たため、これを親身に迎えたと言いますが、程なくして去ったため、実は仲が悪かったのでは?など諸説あるようです。

龍馬の生前は最大の理解者として何かと相談に乗ったり、一方で他愛ないコミュニケーション(手紙のやりとり)を楽しんだりなど、終生仲良しだったようで、その事が「弟を奪った憎い女」=「お龍との不仲説」を生んだのかも知れません。

晩年は独(どく)と改名して甥の坂本直寛(なおひろ。後に自由民権家、高知県会議員)と同居。

これまでの女傑ぶりであれば、ここで甥と共に自由民権運動に参加していそうな気もしますが、そのような記録は見受けられないため、大人しくしていたのでしょう。

そして明治12年(1879年)に壊血病(極度のビタミンC欠乏症)で病死。どうやら当時は死の病だったコレラが野菜から感染すると聞いて、いっさい食べなかったことが原因と考えられています。

享年48歳でした。

 

・終わりに 自分らしく生きること


よく時代劇などで「私が男に生まれていれば(活躍できたはずなのに)……!」と嘆く女性が登場します。

しかし、男性に生まれても特段の活躍もできない者が少なからぬ一方で、女性に生まれても活躍している者もこれまた少なくありません。

女性に生まれようが男性に生まれようが、我らが乙女姉さんはそんなものどこ吹く風。

「立て、それでも男か!」

豪快に笑い飛ばして龍馬を英雄に育て上げた乙女の生涯は、何に生まれるか、よりもどう生きて何になるか、そして自分らしく生きることの価値を教えてくれるようです。

 

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坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード
exciteニュース 2021年9月28日 Japaaan
https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_159518/


■田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上) ニコニコニュース(ドワンゴ)2019/05/20 週刊実話

2022-03-20 05:16:10 | 日記

 

 

■田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上)

ニコニコニュース(ドワンゴ)2019/05/20 週刊実話

https://news.nicovideo.jp/watch/nw5321759


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人の人格は、「三つ子の魂、百まで」との俚諺もあるように、おおむね幼少期に出来上がるとされている。

とくに、男子の場合は母親の生き様、すなわち「うしろ姿」を見る中で、大きな影響を受けるようだ。


「うしろ姿」の受け取り方で、人生が左右されることが少なくないのである。

もとより、血を分けた子であるから、父親のDNAも引くことは言うまでもない。


なるほど、田中角栄は父親の生き様から、競馬好き、錦鯉に興味を示し、“ヤマっ気”また多く、そのDNAを引いたものと思われる。

一方、田中は、母親をどう見ていたのか。


「日の出の勢い」と言われた自民党幹事長の時代に、こう述懐したことがある。

「あの日の母の言葉を絶対に忘れないで、ここまで来ることができた。母あっての私だったと思っている」


ここで言う「あの日の母の言葉」とは、田中が15歳で青雲の志を抱き、新潟から上京する際の言葉を指している。

母は、夫である角次の“つまずき”を諭すかのように、まず「大酒は飲むな。馬は持つな。できもせぬ大きなことは言うな」とクギを刺し、次のような三つの言葉を言い含めたのだった。


「いいか、人間には休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかなら、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ住めないようになったら、早くこっちに帰ってくることだ。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人のことは絶対に忘れてはならない」


後年、馬を持ち、時には大きなことも言った田中だったが、大酒を飲んでわれを忘れることはなかった。

三つの言葉は、社会の荒波を乗り切るための最低限の知恵を、母が教えたということだったのである。


田中の中には、幼少の頃の母の生き様が、常に頭にこびりついていた。

父・角次は牛馬商の傍ら養鯉業にも手を出したりしたが、いずれもうまくいかず、次に競走馬を2、3頭連れての地方競馬の“賞金稼ぎ”に転じたが、これもしくじり続きであった。


生活が立ち行かぬ中、母が一町歩弱の田んぼを、一人、懸命に耕すことで、かろうじて田中家を支えていた。

田中は、こうも言っていた。


「私が子供の頃、夜、目を覚まして手洗いに行くと、母はいつも何か仕事をしていた。お母さんは一体、いつ寝るのだろうかと不思議に思ったくらいだ。また、絶対に愚痴を言わない人でもあった。子供にも、仕事を手伝えとは決して言わず、こちらが自分から手伝うまでは、一人、黙々と働いていた」


無言の母の「うしろ姿」は、感受性の人一倍強かった角栄少年には、強烈な“説得力”があったと思われる。

 

・「越後線の駅員にでも…」


母・田中フメは、生まれたとき、「ヒメ」と名付けられた。

ところが、村役場が間違えて「フメ」となった。


後年、フメは「フメでよかった。いつも田んぼで泥だらけになっているヒメはおらんからなぁ」と苦笑していたものだ。

このフメを悪く言う人は、角次への陰口はあっても、誰一人いなかったのだった。


こんなエピソードがある。

田中が二田尋常高等小学校に入学して間もない頃、ある日、フメが田中に「アニ(田中のこと)はおじいさんの財布からおカネを取らなかったか」と問いただし、さらに「もし悪いことをしたのなら、お母さんはおまえと一緒に鉄道の線路の上で死にます」とも言ったのだった。


田中は何のことか分からなかったが、祖父の財布からは取らなかったものの、茶だんすの上に50銭玉が二つ、むき出しで置かれていたのをいいことに、このカネでミカンを一箱買い、近所の友だちにふるまったことを思い出した。


それを白状すると、祖父はニコニコ笑って、「おまえならいい」と言っていたが、田中はのちにこの時の母の気持ちを、自著でこう臆測している。


「母は他家に嫁してきて、自分の生んだ長男がウソを言ったり、人の物をかすめたりするようなら、母として死ぬほかはないという気持ちだったと思われる。無口な人だが、私にとっては誰よりも恐い人であった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)


ここでの「恐い人」は、もとより畏敬の念が含まれていることがうかがえる。


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田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上)
ライブドアニュース 2019/05/20 週刊実話
https://news.livedoor.com/article/detail/16522543/

 

 

 

 

■田中角栄の母が故郷を離れる息子に伝えた“男の矜持”とは

サライ(小学館)2017/7/1

https://serai.jp/hobby/210082