短歌に関心のない人たちには面白くない記事になりますが、
自分の備忘のために記しておくことにします。
ただし自分のための備忘録ですので、正確な記録にはなっていないかもしれませんので、
ご了承ください。
また聴覚に障害のある私は、
直接耳から聞くことができないので、
当日の講演および鼎談の内容は要約筆記者の方の筆記録から得られた間接的な聴取であることも
付記しておきます。
要約筆記者の方は正確に要約してくださったと思うのですが、
それを写させてもらった私に間違いはあったかもしれません。
*
まず、永田和宏前主宰の講演。
演題は「前衛短歌を振り返る」でした。
レジュメには塚本邦夫の歌群と岡井隆氏の歌群が印刷されてありました。
その中の歌を抜粋して、解説しながら、当時の前衛短歌についての永田氏の感想を述べられました。
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
塚本邦雄「水葬物語」
句割れ、句またぎの手法。が、全体的な長さは守っている。
革命は可能だと思っていたが、革命は幻想でしかない。
やることもないので、ピアノに凭りかかっていた。
本当に新しい歌は出たときは注目されない。
穂村弘の「象のうんこ」の歌が出たとき、新しい歌だと思った。
象のうんこの歌・・・サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
穂村弘
いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼殊沙華
塚本邦雄「感幻樂」
世界の中で居心地の悪さを書いたトリビアリズム(by本郷?さん)
イメージの展開はたかが知れている。大事なことは自分で体験すること。
そのあした女とありたり沸点を過ぎたる相に<佐世保>が泛ぶ
岡井隆「天河庭園集」
佐世保に停泊している原子力潜水艦の反対運動をベースに「女と別れよう」という気持ちを詠っている。
具体を言うと歌に歌にリアリティが出る。
歳月はさぶしき乳を頒かてども復た春は来ぬ花を掲げて
同「歳月の贈り物」
蒼空は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶
同「人生の視える場所」
「乳」と「蜜」はキーワード。
岡井隆は反措定作家。
岡井隆は慶応の医師だった。
昼と夜の岡井隆は、通用門を出るときに代わる。
サイエンスと文学に手を染めていた。うしろめたさとの闘い。
サイエンスには時間の区切りがない。家に帰るきっかけがつかめない。
岡井隆は複雑な人。
人には二面性がある。
あるものを主張しているとき、反対側のものを見ている。
自分の中の違う自分を意識しつづけることは大事。
*
このあと、栗木京子さん、大森静佳さん、永田淳さんの三人による鼎談がありました。
鼎談と言っても三人がそれぞれ勝手にしゃべったという印象でした。
栗木京子さん;
最近は口語で深刻なことを詠むようになった。
文語で表現したら、わざとらしくなってしまう。
若い人が風俗、未来を詠むようになった。
画面に映っていないものをどう詠うか。
事件を大きく詠うのではなく、小さなことから。
普段着とか、特攻隊を詠うなら、そのマフラーを詠うとか。
最近は大きな悲しみには市とレートでいいじゃないかと思う。
三枝昂之さんもレトリックがない力強さに傾きつつある。
大森静佳さん;
勝ち負けを楽しむようなことを感じない。負けたさを感じたことがはない。
嘘つかなくていい。マイナスでなければいい。
その人たちが短歌に集まるようになってきた。
短歌は勝者の文学ではない。
負けていじける文学から立て直しを図った。
名歌が生まれにくい。
永田淳氏;
名歌が生まれにくくなったのは口語のせいだろうか?
東日本大震災以降、言語状況が変わった。
言い方は悪いが津波の映像でわくわくしてしまった。
だからこそ、申し訳なくて詠えない。
*
以上、ごくおおまかな私的備忘録でした。
*
「お知らせ」
来週8月26日(日)深夜1時35分から
この永田和宏氏のドキュメンタリー番組があります。
題して「記憶する歌~科学者が詠う三十一文字の世界」
永田和宏氏も、上記した岡井隆氏と同様、科学者であられます。
、<ご参考>永田和宏←クリックしてください。
短歌に関心ある方、そうでない方も、どうぞご覧ください。
自分の備忘のために記しておくことにします。
ただし自分のための備忘録ですので、正確な記録にはなっていないかもしれませんので、
ご了承ください。
また聴覚に障害のある私は、
直接耳から聞くことができないので、
当日の講演および鼎談の内容は要約筆記者の方の筆記録から得られた間接的な聴取であることも
付記しておきます。
要約筆記者の方は正確に要約してくださったと思うのですが、
それを写させてもらった私に間違いはあったかもしれません。
*
まず、永田和宏前主宰の講演。
演題は「前衛短歌を振り返る」でした。
レジュメには塚本邦夫の歌群と岡井隆氏の歌群が印刷されてありました。
その中の歌を抜粋して、解説しながら、当時の前衛短歌についての永田氏の感想を述べられました。
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
塚本邦雄「水葬物語」
句割れ、句またぎの手法。が、全体的な長さは守っている。
革命は可能だと思っていたが、革命は幻想でしかない。
やることもないので、ピアノに凭りかかっていた。
本当に新しい歌は出たときは注目されない。
穂村弘の「象のうんこ」の歌が出たとき、新しい歌だと思った。
象のうんこの歌・・・サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
穂村弘
いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼殊沙華
塚本邦雄「感幻樂」
世界の中で居心地の悪さを書いたトリビアリズム(by本郷?さん)
イメージの展開はたかが知れている。大事なことは自分で体験すること。
そのあした女とありたり沸点を過ぎたる相に<佐世保>が泛ぶ
岡井隆「天河庭園集」
佐世保に停泊している原子力潜水艦の反対運動をベースに「女と別れよう」という気持ちを詠っている。
具体を言うと歌に歌にリアリティが出る。
歳月はさぶしき乳を頒かてども復た春は来ぬ花を掲げて
同「歳月の贈り物」
蒼空は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶
同「人生の視える場所」
「乳」と「蜜」はキーワード。
岡井隆は反措定作家。
岡井隆は慶応の医師だった。
昼と夜の岡井隆は、通用門を出るときに代わる。
サイエンスと文学に手を染めていた。うしろめたさとの闘い。
サイエンスには時間の区切りがない。家に帰るきっかけがつかめない。
岡井隆は複雑な人。
人には二面性がある。
あるものを主張しているとき、反対側のものを見ている。
自分の中の違う自分を意識しつづけることは大事。
*
このあと、栗木京子さん、大森静佳さん、永田淳さんの三人による鼎談がありました。
鼎談と言っても三人がそれぞれ勝手にしゃべったという印象でした。
栗木京子さん;
最近は口語で深刻なことを詠むようになった。
文語で表現したら、わざとらしくなってしまう。
若い人が風俗、未来を詠むようになった。
画面に映っていないものをどう詠うか。
事件を大きく詠うのではなく、小さなことから。
普段着とか、特攻隊を詠うなら、そのマフラーを詠うとか。
最近は大きな悲しみには市とレートでいいじゃないかと思う。
三枝昂之さんもレトリックがない力強さに傾きつつある。
大森静佳さん;
勝ち負けを楽しむようなことを感じない。負けたさを感じたことがはない。
嘘つかなくていい。マイナスでなければいい。
その人たちが短歌に集まるようになってきた。
短歌は勝者の文学ではない。
負けていじける文学から立て直しを図った。
名歌が生まれにくい。
永田淳氏;
名歌が生まれにくくなったのは口語のせいだろうか?
東日本大震災以降、言語状況が変わった。
言い方は悪いが津波の映像でわくわくしてしまった。
だからこそ、申し訳なくて詠えない。
*
以上、ごくおおまかな私的備忘録でした。
*
「お知らせ」
来週8月26日(日)深夜1時35分から
この永田和宏氏のドキュメンタリー番組があります。
題して「記憶する歌~科学者が詠う三十一文字の世界」
永田和宏氏も、上記した岡井隆氏と同様、科学者であられます。
、<ご参考>永田和宏←クリックしてください。
短歌に関心ある方、そうでない方も、どうぞご覧ください。