かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

またどこかに行きたい

2018-08-25 17:39:51 | ブログ記事
本来出不精であるはずの私であるが、

今年はずいぶんあちこち出かけた。

春は廃線になった三江線に乗り鉄しに行ったし、その後、弘前の桜を見に行こうと東京まで行ったりした。

今夏だけでも、遠くはイギリス、近くでは郷里の高知県の仁淀川、香川県の小豆島、そして、上高地へも行った。今月は軽井沢にも行ったし、浜松へも行った。

その疲れからか、ここ2,3日食欲もない。

が、またどこかに行きたくなっている。

もうこうなれば病気のようだ。

亡くなった母が片時もじっとしていない人で、

異常なばかりの旅行好きだったのが乗り移っているのだろうか?

実家の相続のことを兄嫁に任せきりにしているが、一度帰ってこようか。

すでに秋のお彼岸には帰省する段取りを立てているが・・・。

そうだ、その前に、9月になったら、村形明子さんの一周忌も来る。

京都にも行かなければならない。

忙しいなあ。

辞めた結社の歌友に贈っていただいた歌集も読まなければならないのだが、

なかなか落ち着いて読もうという気になれない。

家の片付けも本腰を入れて始めなければ、私も亡母のようになってしまう?

しかし、出かけたい。(笑)

*

★出不精のわれの今年のお出かけは今年死ににし母のお出かけ

★ぢつとしていられぬ今年の私には私の母が乗り移りゐむ

★お出かけの好きな亡母と村形さん共に私を旅にいざなふ

★落ち着かぬわれの心を落ち着かすために身体は旅に出かける

最近短歌について思うこと・・・意味不明の歌

2018-08-25 10:27:05 | ブログ記事
若い人たちの作る歌で意味不明な歌がある。

たしかに、飛躍していて判読しがたい歌もあるが、

作った本人も意味不明なのではないかと疑いたくなるような歌もある。

もちろん、こちらの読解力不足というこちらに問題のある場合もあるが、

しかし、歌というのは意味が通ってこそ歌だと思うのだが、

そうは思わない人達もいるようだ。

先日の「塔」全国大会での永田和宏氏の演題は「前衛短歌を振り返る」で、

前衛短歌というのは、前衛絵画などもそうであるように、

「わかりにくさ」が売り物みたいな歌である。

が、塚本邦雄の歌などは、わからないなりに魅力がある。

なにか伝わってくるものがあるし、言葉の配置などに芸術的な何かを感じることも多い。

が、最近の若い人たちのわからない歌というのは、年代の差のせいもあるかもしれないが、

まったく意味不明であるものが多い。

それをわかったような顔して解釈する年配の歌人の方もいられるが、

私にしてみれば、

「裸の王様」の裸が見えているのに、服を着ていると嘘をついているようにも見える。

わからない歌はわからないのである。

それをわからないということは恥かしいことではない。

というのが、作った本人もよくわからずに発表しているケースもあるかもしれないから。

それなのに、そんな歌を新しい歌とほめそやす向きがある。

逆に、わかりやすい歌は平凡だとけなされる傾向がある。

私は、平凡であろうがなかろうが、自分の思ったまま、感じたままを詠った歌を買う。

なぜ変に気取った歌を褒めて、よく意味の通るわかりやすい歌をけなすのだろう。

私は選歌体制に問題があると思う。

上に書いたように、

わかりやすいという歌は平凡だからという理由で落として、

変に気取った、一読では意味不明な歌を選者たちが選ぶ傾向があることを問題に思う。

うまい歌、下手な歌の選別にも、しばしばこのわからない歌が顔を出して、

上手い歌かのように論評されることがある。

わからない歌=うまい歌ではない、と私は思う。

歌壇が若い歌人を欲しがっていることはよく理解できる。

が、今のように、訳のわからない歌を詠む人達を手放しでおだてていれば、

そのうち歌壇そのものが衰退するのではないかと私は危惧するのである。