という見出しのついた記事が2月1日金曜日の産経新聞にあったから、
「これは読まなければ」と思いながら、読めないまま、枕元においてあった。
それを昨夜読んだ。
書いているのは産経新聞文化部の桑原聡という人だが、
この記事の元となっているのは、早稲田大学の学生、大瀧真生子さん(21歳)の弁論である。
大瀧真生子さんは、「私の百歳時代のプロジェクト」をテーマにした今年の土光杯弁論大会で、
産経新聞社杯を受けた大学生であるらしい。
彼女は、こう述べたらしい。
≪認知症によって自らの意思伝達手段を失った状態になってまで生き続けたいとは思いません。また寿命が延びるといっても、経済的に困窮し余裕のない人生の最期は望んでいません≫
さらに、
≪私は自分らしく生き、自分らしく人生の幕引きを図るという点で、安楽死という制度が、これからの日本にとって必要な選択肢だと考えます≫
と。
それに対して桑原聡氏は、
「私とて、『自死』という選択肢に踏み切ることができず、ベッドに縛り付けられ、痛みに苦しみながら死を待つだけの状態になってしまったら安楽死を望むだろう。その点では、安楽死を権利として認めることには賛成だ。ただ、認知症になった場合はやっかいだ。理性的判断ができる事情鯛の時に、家族あてに『そうなったときには安楽死を望む』と一筆書きおいていたとしても、その最終判断は家族が下すことになる。そんなやっかいなことはとてもじゃないがお願いできない。頼めるのは、せいぜい『延命治療は不要』ということぐらいだ。」
と書かれているが、私もそう思う。
が、桑原聡氏の言い分は、この後も続く。
大瀧さんの
≪私たちの世代は、施設に入るお金すらもらえるかわからない≫
という言い分に対して、
「年金制度は廃止すべきだと私は考えている。もちろん即座にできることではない。30年先にソフトランディングできるよう知恵を絞ってゆくのだ。老後は国に頼らず、自力で生きる。それが無理なら自分の子供に面倒を見てもらえばよい。一人で親を支えるのは重荷だろうから最低2人、できれば3人の子供を育てておきたい。肝心なのは子育てをしながら、老いた親を子供が扶養するのは当たり前という空気を醸成してゆくことだ。同時にこれから建てる家は2世帯が暮らせる間取りを基本とする」
と書かれている。
私は、これも桑原氏の言い分に賛同する。
私たちの親の世代は、それが当たり前であった。
私たちの世代でも、そうしてきた人たちが多かった。
核家族が当たり前になった現在、それを元に戻すのだ。
年取って、子の世話にならなければならなくなった世代の私が言うと説得力に欠けるが、
しかし、2世代、3世帯同居は、理に適っていると、
自分の現在おかれている立場から離れても、そう思う。
なぜなら、
食事も、2人分つくるより、4、5人分を作るほうが一人当たりの食費は断然経済的である。
それから、3世代同居だと、親と子が助け合って暮らせる。
すなわち
子供が、その子供たちを育てる時期は、親である祖父母が助けてやれるし、
親が年老いて自分の身の回りのことをするのも覚束なくなってきたら、
今度は、子供世代、あるいは孫世代が、その老親の面倒を、自然に看ることができる。
理想的だと思うのである。
私のように難聴で玄関のインターホンも聞き取りがたい老人でも、
若い人が一緒に暮らしてくれれば難なく解決する。
が、問題は、やはり嫁姑の問題であろう。
私は、同居ではなかったが、それでも、たびたび来てくれる姑には苦労させられた。
これが同居だと、お嫁さんのほうが息抜きもできないかもしれない。
また、私のように、それほど掃除に力を注がない姑さんには、
きれい好きのお嫁さんに不満が溜まるということも考えられる。
逆もあるだろう。
実の親子でも、一緒にいると、互いのアラが見えてくるのだから、
これが違う環境で育った者同士だったら。
そんな問題はありながらも、
これからの時代を考えたら桑原氏の言い分は、もっともだと思わせられる。
*
★三世代同居でありしころ祖母は母は苦労してきたしかし
★同居してよきことありても掻き消さる嫁側不満の大きくあれば
★三世代同居は理想かもしれぬ嫁姑の問題なくば
*
以上、
タイトルにした「自死も老後の選択肢のひとつ」からは論点がずれてしまったが、
これからますます高齢化していく自分たちの世代の生き方としての選択肢として、
私は、安楽死も視野に入れてもいいと思うし、
これからの高齢化社会を考える上で、桑原氏の言われる「2世代、3世代同居」も
視野に入れたらと思う。
自分が老人世代になってしまったから、我田引水に受け取られそうな恐れはあるが、
考え方としては理に適っていると思うのだ。
「これは読まなければ」と思いながら、読めないまま、枕元においてあった。
それを昨夜読んだ。
書いているのは産経新聞文化部の桑原聡という人だが、
この記事の元となっているのは、早稲田大学の学生、大瀧真生子さん(21歳)の弁論である。
大瀧真生子さんは、「私の百歳時代のプロジェクト」をテーマにした今年の土光杯弁論大会で、
産経新聞社杯を受けた大学生であるらしい。
彼女は、こう述べたらしい。
≪認知症によって自らの意思伝達手段を失った状態になってまで生き続けたいとは思いません。また寿命が延びるといっても、経済的に困窮し余裕のない人生の最期は望んでいません≫
さらに、
≪私は自分らしく生き、自分らしく人生の幕引きを図るという点で、安楽死という制度が、これからの日本にとって必要な選択肢だと考えます≫
と。
それに対して桑原聡氏は、
「私とて、『自死』という選択肢に踏み切ることができず、ベッドに縛り付けられ、痛みに苦しみながら死を待つだけの状態になってしまったら安楽死を望むだろう。その点では、安楽死を権利として認めることには賛成だ。ただ、認知症になった場合はやっかいだ。理性的判断ができる事情鯛の時に、家族あてに『そうなったときには安楽死を望む』と一筆書きおいていたとしても、その最終判断は家族が下すことになる。そんなやっかいなことはとてもじゃないがお願いできない。頼めるのは、せいぜい『延命治療は不要』ということぐらいだ。」
と書かれているが、私もそう思う。
が、桑原聡氏の言い分は、この後も続く。
大瀧さんの
≪私たちの世代は、施設に入るお金すらもらえるかわからない≫
という言い分に対して、
「年金制度は廃止すべきだと私は考えている。もちろん即座にできることではない。30年先にソフトランディングできるよう知恵を絞ってゆくのだ。老後は国に頼らず、自力で生きる。それが無理なら自分の子供に面倒を見てもらえばよい。一人で親を支えるのは重荷だろうから最低2人、できれば3人の子供を育てておきたい。肝心なのは子育てをしながら、老いた親を子供が扶養するのは当たり前という空気を醸成してゆくことだ。同時にこれから建てる家は2世帯が暮らせる間取りを基本とする」
と書かれている。
私は、これも桑原氏の言い分に賛同する。
私たちの親の世代は、それが当たり前であった。
私たちの世代でも、そうしてきた人たちが多かった。
核家族が当たり前になった現在、それを元に戻すのだ。
年取って、子の世話にならなければならなくなった世代の私が言うと説得力に欠けるが、
しかし、2世代、3世帯同居は、理に適っていると、
自分の現在おかれている立場から離れても、そう思う。
なぜなら、
食事も、2人分つくるより、4、5人分を作るほうが一人当たりの食費は断然経済的である。
それから、3世代同居だと、親と子が助け合って暮らせる。
すなわち
子供が、その子供たちを育てる時期は、親である祖父母が助けてやれるし、
親が年老いて自分の身の回りのことをするのも覚束なくなってきたら、
今度は、子供世代、あるいは孫世代が、その老親の面倒を、自然に看ることができる。
理想的だと思うのである。
私のように難聴で玄関のインターホンも聞き取りがたい老人でも、
若い人が一緒に暮らしてくれれば難なく解決する。
が、問題は、やはり嫁姑の問題であろう。
私は、同居ではなかったが、それでも、たびたび来てくれる姑には苦労させられた。
これが同居だと、お嫁さんのほうが息抜きもできないかもしれない。
また、私のように、それほど掃除に力を注がない姑さんには、
きれい好きのお嫁さんに不満が溜まるということも考えられる。
逆もあるだろう。
実の親子でも、一緒にいると、互いのアラが見えてくるのだから、
これが違う環境で育った者同士だったら。
そんな問題はありながらも、
これからの時代を考えたら桑原氏の言い分は、もっともだと思わせられる。
*
★三世代同居でありしころ祖母は母は苦労してきたしかし
★同居してよきことありても掻き消さる嫁側不満の大きくあれば
★三世代同居は理想かもしれぬ嫁姑の問題なくば
*
以上、
タイトルにした「自死も老後の選択肢のひとつ」からは論点がずれてしまったが、
これからますます高齢化していく自分たちの世代の生き方としての選択肢として、
私は、安楽死も視野に入れてもいいと思うし、
これからの高齢化社会を考える上で、桑原氏の言われる「2世代、3世代同居」も
視野に入れたらと思う。
自分が老人世代になってしまったから、我田引水に受け取られそうな恐れはあるが、
考え方としては理に適っていると思うのだ。
生物学博士の福岡先生は、人間の死の定義を早める事で、ボロ儲けする企業が現れると語りますが。全ての機能が失われた時を死と定義するのは、本人にとって酷かなとも思います。
脳死状態を死と定義すれば、臓器提供は一気に増える訳で、人の死でボロ儲けする奴の為に死にたくはないんですが。切迫した国家の財政を、介護ケア企業の腐った現状を考えるとね。それに老いた臓器ははたして役に立つのか?
自然科学が医療を追い抜き暴走し、脳死でもAIで復活させ、下半身麻痺でもロボットで代用したりと、様々な状況が予想されるんですが。
余程の極例がない限り、程々の時期で人は死ぬべきだと思う。人類の高齢化はヒトの生態系を乱し、人類を滅ぼす事になるかもだ。
それに脳死だと言っても、心臓が動いている間は死んではいません。心臓には脳に匹敵するほど魂が宿っているとも聞きますから。
ある程度の年齢になったら、人は死んだほうが、本人も家族も幸せでと思います。
ただ、誰でも苦しみながら死にたくはありませんから、安楽死の必要はあるわけです。
人によっては、死は福音だと思います。
私も、難聴であるだけでも、ときどき早く死にたいと思うくらいですから、癌のような痛みのある病気で苦しんでいる人はもっとだと思います。
さっきさるサイトで、非公式ながら129歳まで長生きをしたロシアのお婆さんが「長生きは拷問だった」と言っていたという記事を読んで納得したところです。