今から55年ほど前、今は亡き兄が慶応大学に合格して、
横浜の日吉キャンパスに通うため横浜に下宿することになった。
が、高知県という田舎から、いきなり都会での生活は不安だろうからと、
母方祖父が自分の横浜在住の従妹に手紙を書いて兄の世話を頼んでくれた。
祖父の従妹家族は大歓迎してくれて、兄は土日はその家に滞在するようになった。
そのよしみで、私と母もその家に逗留させてもらったことがあった。
そこのお爺さんは、昔の神戸高商(今は神戸大になっているかな)を卒業して、
商社を勤め上げた人だったが、少し変わり者だった。
が、どういうわけか大工の素養があって、
横浜のその自宅は、そのお爺さんが、その長男に手伝わせて自分で建てたと聞いた。
「へえ~、素人がこんな家を?」と驚いたことを覚えている。
さらにその家には離れもあって、その離れは来客用だった。
その離れの家に布団を敷きっぱなしのままにして、何日滞在してもいいと言われて、
母と私は1週間くらい滞在させてもらった。
その家の所在地は、関内という駅を降りた山手にあって、石段を上っていったのを覚えている。
けっこう広い敷地だった。
或る日、その広い庭で、その祖父の従妹は、そのお連れ合いのお爺さんの散髪をしてあげていた。
なんでも、そのお爺さんは散髪屋に行くのが嫌いで、いつも奥さんに散髪をさせるということだった。
そんな光景も覚えているから、あまり裕福な家とは思わなかった。
が、先日、横浜在住の方のブログに、そのことを書くと、
関内の駅から行く山手は高級住宅地ですと。
え、そんなふうには見えなかったけど?
ただ、その家のご長女は、電話で外人と喧嘩ができるというくらい英語がペラペラで、
当時はまだ女性が自家用車(今はこんな呼び方はしない?笑)で通勤すのは珍しい時代に
それをしていたから、かなりのキャリアウーマンだったかもしれない。
そのお爺さんは、
英語も、ネイティブの人と、面と向かってでならともかく、
顔の見えない電話で喧嘩ができるようになって初めて本物と言えるという持論を持っていて、
自分の娘がそれができることを自慢していた。
その娘さん(といっても私から見れば小母さん年齢だった)は、
出勤するときも、最先端のおしゃれをしていたが、
帰宅すると、その反動からか、よれよれの服で過ごしていた。
家族の様子がそんなだったから、余計、お金持ちのようには見えなかった。
その後、そのお婆さんが亡くなって、兄も亡くなったから、
その家とも音信不通になってしまったが、いまはどうしていられるだろう。
その家のご長男は、当時、さる国立大学の助手か助教授をされていたけれど、
その変わり者のお爺さんが、理由は忘れたが、大学に文句をつけて辞めさせたと聞いた。
その後、どこかに転職されたと記憶しているが、まもなく亡くなられたと風の便りに聞いた。
夭折と言える年齢だったと思う。
息子さんは、とても人柄のよい、おっとりした方だった。
そんなことを、いろいろ思い出したが、兄が亡くなってしまった現在、
そんな昔のことを聞ける人もいなくなってしまった。
この歳になると、忘却のかなたに消えていく記憶も多いと実感する。
*
★関内といふ駅ちかくに親戚の家ありしこと思ひだしたり
★眺めよき庭でありにし親戚の家に逗留せしことなども
★親戚の家は素人親子にて建てしと聞きし半世紀まへ
*
たしか親戚の家の横にフェリス女学院があったように記憶しているけれど、
いま地図で確かめると、フェリス女学院は関内の近くではなさそうですね。
ということは、関内と記憶していたのが記憶違いか、
あるいは、フェリス女学院と記憶していたのが記憶違いかということになりますね。
それともフェリス女学院が引っ越した?
私が田舎育ちのお上りさんだったから、記憶が定かでないんですよ。
横浜の日吉キャンパスに通うため横浜に下宿することになった。
が、高知県という田舎から、いきなり都会での生活は不安だろうからと、
母方祖父が自分の横浜在住の従妹に手紙を書いて兄の世話を頼んでくれた。
祖父の従妹家族は大歓迎してくれて、兄は土日はその家に滞在するようになった。
そのよしみで、私と母もその家に逗留させてもらったことがあった。
そこのお爺さんは、昔の神戸高商(今は神戸大になっているかな)を卒業して、
商社を勤め上げた人だったが、少し変わり者だった。
が、どういうわけか大工の素養があって、
横浜のその自宅は、そのお爺さんが、その長男に手伝わせて自分で建てたと聞いた。
「へえ~、素人がこんな家を?」と驚いたことを覚えている。
さらにその家には離れもあって、その離れは来客用だった。
その離れの家に布団を敷きっぱなしのままにして、何日滞在してもいいと言われて、
母と私は1週間くらい滞在させてもらった。
その家の所在地は、関内という駅を降りた山手にあって、石段を上っていったのを覚えている。
けっこう広い敷地だった。
或る日、その広い庭で、その祖父の従妹は、そのお連れ合いのお爺さんの散髪をしてあげていた。
なんでも、そのお爺さんは散髪屋に行くのが嫌いで、いつも奥さんに散髪をさせるということだった。
そんな光景も覚えているから、あまり裕福な家とは思わなかった。
が、先日、横浜在住の方のブログに、そのことを書くと、
関内の駅から行く山手は高級住宅地ですと。
え、そんなふうには見えなかったけど?
ただ、その家のご長女は、電話で外人と喧嘩ができるというくらい英語がペラペラで、
当時はまだ女性が自家用車(今はこんな呼び方はしない?笑)で通勤すのは珍しい時代に
それをしていたから、かなりのキャリアウーマンだったかもしれない。
そのお爺さんは、
英語も、ネイティブの人と、面と向かってでならともかく、
顔の見えない電話で喧嘩ができるようになって初めて本物と言えるという持論を持っていて、
自分の娘がそれができることを自慢していた。
その娘さん(といっても私から見れば小母さん年齢だった)は、
出勤するときも、最先端のおしゃれをしていたが、
帰宅すると、その反動からか、よれよれの服で過ごしていた。
家族の様子がそんなだったから、余計、お金持ちのようには見えなかった。
その後、そのお婆さんが亡くなって、兄も亡くなったから、
その家とも音信不通になってしまったが、いまはどうしていられるだろう。
その家のご長男は、当時、さる国立大学の助手か助教授をされていたけれど、
その変わり者のお爺さんが、理由は忘れたが、大学に文句をつけて辞めさせたと聞いた。
その後、どこかに転職されたと記憶しているが、まもなく亡くなられたと風の便りに聞いた。
夭折と言える年齢だったと思う。
息子さんは、とても人柄のよい、おっとりした方だった。
そんなことを、いろいろ思い出したが、兄が亡くなってしまった現在、
そんな昔のことを聞ける人もいなくなってしまった。
この歳になると、忘却のかなたに消えていく記憶も多いと実感する。
*
★関内といふ駅ちかくに親戚の家ありしこと思ひだしたり
★眺めよき庭でありにし親戚の家に逗留せしことなども
★親戚の家は素人親子にて建てしと聞きし半世紀まへ
*
たしか親戚の家の横にフェリス女学院があったように記憶しているけれど、
いま地図で確かめると、フェリス女学院は関内の近くではなさそうですね。
ということは、関内と記憶していたのが記憶違いか、
あるいは、フェリス女学院と記憶していたのが記憶違いかということになりますね。
それともフェリス女学院が引っ越した?
私が田舎育ちのお上りさんだったから、記憶が定かでないんですよ。