blog友さんの今日の記事にアメリカとアラスカに行くことが書かれてあったので、
旅好きだった自分の母を思い出した。
私の母は、世界中隈なくと言っていいくらい旅行した。
スペインとかイタリアは私を連れて行ってくれるために2度目だった。
当時の私は50歳くらいで、やっと子育てから解放された時期だった。
それまでは、海外は中国とハワイくらいしか行ったことがなかった。
だから母は私に、
歴史の宝庫であるスペインとイタリアに連れていってやろうと思いついたのだった。
私は初めて訪れるヨーロッパであったスペインに感動した。
見るもの、聞くもの、すべて新鮮だった。
まだ難聴が現在ほど悪化していなかったから、ガイドさんの話も聞こえたし。
その後、母は私をカナダと北欧にも連れていってくれた。
カナダのときは、トロントでフリーな一日があったが、
まだ遠出する自信がなくて、ホテルの近辺をうろうろしただけだった。
が、北欧になると、私も少し海外に馴れて、
北欧ツアーのフリーな一日は、
ガイドさんを雇わないで、私が母と同行の母の友人二人も連れてお城巡りをした。
北欧の人達は皆英語が喋れるから何とか話が通じた。
しかも、北欧の人達も英語はネイティブではないから、私といい勝負だった。
それと、向こうの人は、とても親切で、
向こうのお婆さんなどに道を聞いても、丁寧に教えてくれた。
それを見た母の友人の一人は田舎でお店をしている人だったが、
「今まで人に道を尋ねられても、あそこまで親切に教えてあげていなかったが、
これからは北欧の人を見習おうと思う」と言っていた。
その後、母は78歳で脳梗塞で倒れて、一時半身不随にもなったが、
懸命のリハビリで歩けるようにもなったし、言語障害がありながらも喋れるようにもなった。
だから、その後も、中国の三峡とかへも行っている。
私が、この川西に来た直後も、
孫たちの将来のためにアメリカの東海岸の都市を見せてやりたいと、
勝手に私と次男のツアーの申し込みをしていた。
が、私は義母の介護を始めたばかりだったし、
大学院生だった次男は就職氷河期の就職戦線真っ最中だったから断った。
それでもあきらめることをしない母は、
甥(兄の子)二人を連れて行った。
が、往きの飛行機の中で、
亡兄の身体の弱い大学合格直後だった三男が、折からの体調不良のあげく、呼吸停止してしまった。
が、母も脳梗塞の後遺症がある中、
機中にたまたま乗り合わせていた医師に甥の手当を頼みながら、
到着予定だったボストン(だったと思う)の空港に救急車を待機させてもらって、
そのまま病院に直行して、甥の入院に1か月付き添った。
その間、兄の次男を先に帰国させて、三男の合格していた大学入学式に代理出席させた。
その後、その大学のガイダンスなども兄の次男に代理で受けさせた。
脳梗塞で頭の根幹が駄目になったはずだった母の
あの奮迅の働きは何によってなされたのかと今でも不思議に思う。
当時の母の年齢は82歳であった。
blog友さんの今朝の記事を読ませてもらって、
この私の亡母の特異な旅を思い出した。
あの、なんでも奇跡を起こす不死身の母に死が訪れることなど想像できなかったが、
案外あっさり私と一緒に宿泊中だったホテルの私の横のベッドで終焉を迎えた。
今ごろ母は、彼の世からときどき来て、此の世の空を飛び回っているかもしれない。
スペイン、ポルトガル、イタリアは一度は行っておくべき外国かなと思いますね。
もう一度、という思いが強かったのは、私の場合ポルトガルでした。
でも、飛行機の中での出来事、それに対する母上様の行動は
目を見張るものがあります。年齢など関係ないのだなと思いますね。
横のベッドで亡くなられたのは、一番可愛い子供だったのでしょう。
お互いに、大好きだと思っていれば、何か通じ合うのだと思います。
『好きな事やりたいことはなんでもやっていいよ』と言ってくれた母ですが
『責任は自分で取りなさいね。でも、殺人を犯すにはよほどの理由が
あると思うから、その時は、全財産を使ってあらゆる手を労して
無罪にしてみせる』と言ってくれたのには、半分呆れました。
そういうバカな事はしないと思っても気性の激しさを心配していたようです。
でも、お互いに素晴らしい母親を持って幸せですね。
母が78歳で脳梗塞で倒れたときは、それで終わりと皆おもいました。が、そこからの母がすごいというか偉かったというか、半身不随になっていたのに、リハビリを頑張って、退院してからは毎日、早朝から高知城に行って大きな声を出す練習とかしていました。それでも死ぬまで言語障害は治りませんでしたが、それでも生け花を教えに行ったし、旅行にも行きました。自分の母ながら、あっぱれな人生だったと思います。最後は、前の晩、ホテルの夕食をおいしいおいしいと食べて、翌朝見たら亡くなっていたのです。主治医の先生は大往生でございましたと私を抱きしめてくださいました。入院中は外泊願いをしょっちゅう出して困った患者でしたが、主治医の先生は母のことを理解してくれていたのだと思います。
アメリカに行ったときのことは本当に驚きました。脳梗塞で脳幹が駄目になっていたはずなのに、あそこまでの対応ができたことは神がかっていたと思います。
私は、花さんも私の母と同様の強さをお持ちだと思います。
母の前の年に亡くなった村形明子さんは、最初、私と友達だったのに、一緒に室戸岬を旅行してから、すっかり意気投合して、村形さんのほうから母に「お友達になってください」とお願いされました。ちなみに、村形明子さんという方は京都大学の名誉教授だった方です。彼女も私の母と同じような強さを持っていました。昭和16年の1月生まれであられましたが、彼女も、あっという間に亡くなられました。病名はすい臓がんでしたけれども、本人もそれを知らずに亡くなったというくらいあっけなく・・・。
村形明子さんは東京大学を卒業後、ワシントンのジョージワシントン大学の大学院を卒業され、花さんがこれから行かれようとされているボストンの図書館にもよく行っておられたようです。