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かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

禍福はあざなえる繩の如くdktp91

2018-09-08 15:00:46 | ブログ記事
今回、地震の被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

と同時に、

タイトルにしました

「禍福はあざなえる繩の如く」

という言葉をかみしめております。

人は災害に遭った時に、これほどの不幸はないと思われると思います。

が、決して悪いだけのものではないと私は思います。

私は、亡くなった叔母が天理教を信仰していた関係で、

私自身は信者ではありませんが、叔母がしばしば言っていた

節から芽が出る」

という言葉が胸に刻まれています。

この言葉の意味は

不幸なことが起こったら、それはよいことの兆しである。

というふうに解釈させていただいています。

それをきっかけに、人生が好転するということはよくあることのようです。

災害ではありませんが、

私のような身体障碍者は、

しばしば、なぜこんなふうに生まれてきたのだろう?

と、親を恨み、我が身を恨みます。

しかし、

身体障碍者に生まれてきたことも悪いばかりではありません。

少なくとも、

他の身体に障碍を負っている人たちへの共感はもてます。

それだけでも大きな幸いですが、

さらに、自分に弱みがあることによって、

他人様に対して傲慢になることを控えることができます。

これは大きな福音だと思います。

これによって、無用の罪を犯すことから逃れることができますから。

私は、自分のことを顧みました時、

もし、私が五体満足であったなら、

どれほど傲慢な人間であったかと恐ろしくなることがあります。

聴覚に障碍があり、心機能にも障碍がありながらも、

まだまだ傲慢なところのある人間ですから。

ですから、この私の障碍は、

神様からのプレゼントなのかもしれないと思ったりもします。

災害は、

まったく違うもののように思われますが、

私には、

これも、やはり神様からのプレゼントではないかと思えるところもあります。

人は、どうしようもない困難の中におかれて、

初めて悟れるというところがありますから、

人生究極の悟りを得るためには、

必要不可欠なものであるかもしれないと思ったりもします。

私の障碍と同様に・・・。

*

★困難は幸福になる近道であるとぞ思ふ障碍もてば

★災害も神様からの贈り物さうは思へぬときもありつつ

★底力つけるためにはドン底に落ちねばならぬと思ふときあり

★神頼みするしか術のなきときに神は働く仕組みなるべし

★不思議なる助けを受けし者のみが神に近づく者であるらし

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4 コメント

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両眼を失った老トレーナーのお話 (lemonwater2017)
2018-09-09 02:40:42
両目の視力をホクシングで失った、ある黒人の老トレーナーがいた。
 
貴方は生まれ変わってもボクシングをするかと。

   答えはYESだった。

”ボクシングは俺の両目を奪った。しかし、ボクシングは俺に全てを与えてくれた。だから、何度生まれ変わってもボクシングをやるさ”と、老トレーナーは答える。


 五体満足のビコさんが、どうなるのか分からない。今のビコさんよりもずっと幸せになるかもしれないし、或いは、ずっとずっと不幸に惨めになってるかも知れない。

 聴力障害も心臓や大腸の病気も、ビコさんの全てであり、五体満足であっても、ビコさんはビコさんのままだと思う。ビコさんが村形さんになる筈もない。アタリメーだろ(笑)。


 人間、その時になったら、それを受け入れるしかない。そして、何事もなかったかの様に、時代も人生も進んでいく。

 しかし、人は時代や人生ほど、タフで冷酷ではない。苦痛は無視できないし、不自由は自由にはなり得ない。

 味わった苦痛や苦悩は、永遠に記憶に刻み込まれ、不自由や不公平を憎む気持ちは、誰しも同じだろう。


 災害や不幸が訪れる度、人はゼロに戻される。そして、全てゼロから始め出発する。人生とはその繰り返しだと思う。
 本当の進化とはその繰り返しだと思う。成功なんて退化の甘い蜜に過ぎない。

 だから、ビコさんの不自由や不公平は、ビコさんを進化させてきた、大切な財産かも知れない。そう思わないと、先へは進めない。

 生意気なコメントで恐縮です。トホホ。
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転象さんへ (びこ)
2018-09-09 04:28:21
その通りだと思います。

私の言いたかったことはそういうことだったのです。

障碍のあることは苦しい。辛い。

しかし、それがあって現在の私という人間は形作られているのです。

あの才色兼備だった村形明子さんも決して幸せではなかった。

自分の選んだ人生だったとはいえ、家族をもたなかったことは彼女の最大の不幸だったと思う。

が、同時に彼女の幸福でもあった。

人生とはそういうものだと思います。

だから、障碍のあることは、幸せを遠ざけているようで、しかし、それを克服できたときに幸せの元になるのです。

災害に遭われた方々も、今はつらくてたまらないと思いますが、後年、あれは幸せの源だったと思える時が来ると思います。

その一代では来なくても、次代、次次代で来るかもしれない。

人生とはそういうものだと思います。
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Unknown (西北)
2018-09-09 08:10:26
近所にも天理教の方がいます。
多分、天理教と思いますが。
人に、嫌なことをする人が多いのも
確かです。
した事が、我にかえってくる事も
考えないで。
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西北さんへ (びこ)
2018-09-09 14:05:14
叔母は結核になって天理教に入信しました。

本当は20代で亡くなるところを62歳まで生きさせてもらったと熱心に信仰していました。

私の難聴も信仰すれば治ると熱心に勧めてくれましたが、私は信仰するほどまでには至りませんでした。

が、一応、現在も天理時報は読ませてもらっています。

信仰していても、いじわるな人はいますが、だからこそ信仰していると思えば、納得です。

人にいやなこと、いじわるなことをする人は可哀そうな人ですね。

自分が幸せでないからといって、人にいじわるをして幸せになれるはずもないのに?

人にいじわるをしている間は幸せは遠ざかるばかりです。

それに気づいて反省をすれば、その人にも幸せは訪れます。

というふうに私は思っています。
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