私たちが結婚して最初に暮らしたのは千葉県船橋市でした。
夫の勤めていた会社の社宅が西船橋というところにあったからです。
義母は、私たちが新婚旅行からその社宅に帰るのを、そこで待ち受けていました。
そして、一応名目は、私の婚礼の荷物の運び入れを手伝うということになっていました。
私は、兄と私の二人きょうだいでしたから、母は一人娘の私に着物をいっぱい作ってくれていました。
その着物を見た義母は、開口一番、
「こんなにたくさん着物をもってきて・・・、着るの?着れるの?」
と迷惑そうに言いました。
が、その後、私たちが大阪のマンション住まいをするようになり、
子供もできて和ダンスの置き場に困るようになると、
義母は私の和ダンスを預かってくれました。
そこまではよかったのですが、
あるとき、夫の実家(今のこの家の建て直す前の家)に行って、
座卓の上にあった義妹のお見合い写真を見ますと、
なんと、
私が結婚のときに新調してもらった訪問着を義妹が着て写真に収まっているではありませんか。
いや、着てくれるのは構わないのですが、ひとこと言ってほしかったです。
常日頃、私に偉そうに言う義母と義妹でしたから、言いにくかったかもしれませんが、だからこそ。
その後、私の実家の母は、私の娘の七五三のときなどにも、着物を作ってくれました。
その着物なども、義母は私に断りも入れずに、義妹の娘に着せていました。
そのうえ、私の娘の前で、「この着物は、〇〇ちゃんのほうに似合っているわ」と言ったらしいのです。
〇〇ちゃんとは義妹の娘の名前です。
それを言われて、着物の持ち主の私の娘はいたく傷ついて帰宅しました。
義母は、私の娘のことは可愛がっていましたから、その言葉は、私への当てつけだったと思います。
とにかく何でも悪いことは私のせいにしたがった義母の決定的な言葉は、
「最近、▽▽が怒りっぽいけど、あなたが夜、▽▽を拒否したりするからじゃないの?」
と言われたときは飛び上がるほど驚きました。
夫婦の夜の営みのことまで、あることないこと言われるなんて・・・。
▽▽は私の夫の名前です。
よくそんなことが言えると、ショックで何も言い返せませんでした。
このことに限らず、当時は言い返しなど、とてもできる義母ではありませんでした。
そのころ、夫が義母にたてつくのは、夫なりに私をかばっていたからだったのです。
それを、そのように言うなんて・・・。
いま思い出しても、悲しいことはいっぱいありました。
が、子供たちのために我慢しました。
夫や、義父のお姉さんたちが私を応援してくれたことも我慢できた理由にありました。
義父も内心では味方していてくれたかもしれませんが、義母には何も言いませんでした。
義父は優秀なエンジニアでしたが、事業に失敗してから義母に頭が上がらなくなっていましたから、
たぶん言えなかったんだと思います。
今の若い人たちだったら、疾うに離婚だったでしょうね。
が、私たちの時代は、まだ離婚というと「出戻り」というレッテルを貼られるので、
親戚縁者にも迷惑がかかると、ひたすら我慢しました。
兄も、まだ結婚していませんでしたから、出戻りの妹がいるとなると条件が悪くなると思ったし
何より父母、祖父母を悲しませたくありませんでした。
*
★結婚のころの悲しき思ひ出は次々浮かび浮かびやまざる
★嫁われを虐めることを生きがひにしてゐたやうな義母と義妹よ
★年一度帰省することすら義母は許さず説教数時間も
★晩年に「私に実家なきことがあなたの帰省許せざりし」と
★祖父母にはたつた一人の女孫(めまご)なりしわれは帰省を待たれてゐしに
★わたくしの帰省老後の楽しみにしてゐし祖父母待たせてばかり
★晩年の義母は泣きたりわたくしが祖父母の気持ち伝へしときに
★晩年はわたしに頼りきりなりし義理母いまは許さむと思ふ
*
義母は自分のおしゃれやお出かけにはお金をかける人でしたが、
自分の娘である義妹には、着物を作ってやるとか、洋服を買ってやるとかはしませんでした。
だから、義母と義妹も、仲がよくなかったのですが、
しかし、
こと嫁の私に対しては、共同戦線を張るのでした。
義弟の奥さんには、こんな意地悪を言ったり、したりしなかったから、
よほどな難聴の私のことが気に入らなかったんだと思います。
私の夫は義母の自慢の息子でしたから、よけい我慢ならなかったのでしょうね。
が、私も、夫と無理に結婚しなくても、
当時は、
難聴でもかまわないと言ってくれる人もたくさんいましたから、結婚しなければよかったのです。
夫の勤めていた会社の社宅が西船橋というところにあったからです。
義母は、私たちが新婚旅行からその社宅に帰るのを、そこで待ち受けていました。
そして、一応名目は、私の婚礼の荷物の運び入れを手伝うということになっていました。
私は、兄と私の二人きょうだいでしたから、母は一人娘の私に着物をいっぱい作ってくれていました。
その着物を見た義母は、開口一番、
「こんなにたくさん着物をもってきて・・・、着るの?着れるの?」
と迷惑そうに言いました。
が、その後、私たちが大阪のマンション住まいをするようになり、
子供もできて和ダンスの置き場に困るようになると、
義母は私の和ダンスを預かってくれました。
そこまではよかったのですが、
あるとき、夫の実家(今のこの家の建て直す前の家)に行って、
座卓の上にあった義妹のお見合い写真を見ますと、
なんと、
私が結婚のときに新調してもらった訪問着を義妹が着て写真に収まっているではありませんか。
いや、着てくれるのは構わないのですが、ひとこと言ってほしかったです。
常日頃、私に偉そうに言う義母と義妹でしたから、言いにくかったかもしれませんが、だからこそ。
その後、私の実家の母は、私の娘の七五三のときなどにも、着物を作ってくれました。
その着物なども、義母は私に断りも入れずに、義妹の娘に着せていました。
そのうえ、私の娘の前で、「この着物は、〇〇ちゃんのほうに似合っているわ」と言ったらしいのです。
〇〇ちゃんとは義妹の娘の名前です。
それを言われて、着物の持ち主の私の娘はいたく傷ついて帰宅しました。
義母は、私の娘のことは可愛がっていましたから、その言葉は、私への当てつけだったと思います。
とにかく何でも悪いことは私のせいにしたがった義母の決定的な言葉は、
「最近、▽▽が怒りっぽいけど、あなたが夜、▽▽を拒否したりするからじゃないの?」
と言われたときは飛び上がるほど驚きました。
夫婦の夜の営みのことまで、あることないこと言われるなんて・・・。
▽▽は私の夫の名前です。
よくそんなことが言えると、ショックで何も言い返せませんでした。
このことに限らず、当時は言い返しなど、とてもできる義母ではありませんでした。
そのころ、夫が義母にたてつくのは、夫なりに私をかばっていたからだったのです。
それを、そのように言うなんて・・・。
いま思い出しても、悲しいことはいっぱいありました。
が、子供たちのために我慢しました。
夫や、義父のお姉さんたちが私を応援してくれたことも我慢できた理由にありました。
義父も内心では味方していてくれたかもしれませんが、義母には何も言いませんでした。
義父は優秀なエンジニアでしたが、事業に失敗してから義母に頭が上がらなくなっていましたから、
たぶん言えなかったんだと思います。
今の若い人たちだったら、疾うに離婚だったでしょうね。
が、私たちの時代は、まだ離婚というと「出戻り」というレッテルを貼られるので、
親戚縁者にも迷惑がかかると、ひたすら我慢しました。
兄も、まだ結婚していませんでしたから、出戻りの妹がいるとなると条件が悪くなると思ったし
何より父母、祖父母を悲しませたくありませんでした。
*
★結婚のころの悲しき思ひ出は次々浮かび浮かびやまざる
★嫁われを虐めることを生きがひにしてゐたやうな義母と義妹よ
★年一度帰省することすら義母は許さず説教数時間も
★晩年に「私に実家なきことがあなたの帰省許せざりし」と
★祖父母にはたつた一人の女孫(めまご)なりしわれは帰省を待たれてゐしに
★わたくしの帰省老後の楽しみにしてゐし祖父母待たせてばかり
★晩年の義母は泣きたりわたくしが祖父母の気持ち伝へしときに
★晩年はわたしに頼りきりなりし義理母いまは許さむと思ふ
*
義母は自分のおしゃれやお出かけにはお金をかける人でしたが、
自分の娘である義妹には、着物を作ってやるとか、洋服を買ってやるとかはしませんでした。
だから、義母と義妹も、仲がよくなかったのですが、
しかし、
こと嫁の私に対しては、共同戦線を張るのでした。
義弟の奥さんには、こんな意地悪を言ったり、したりしなかったから、
よほどな難聴の私のことが気に入らなかったんだと思います。
私の夫は義母の自慢の息子でしたから、よけい我慢ならなかったのでしょうね。
が、私も、夫と無理に結婚しなくても、
当時は、
難聴でもかまわないと言ってくれる人もたくさんいましたから、結婚しなければよかったのです。
実は私のお袋も同じ様な、いやそれ以上の酷な経験をしてます。昔は嫁と姑の関係は完璧な縦社会でしたから。嫁ぎ先の夫の母親は絶対女王様の様なもの。話を聞いてて、悍ましく呆れる程です。児童虐待どころか嫁虐待、もう立派な重犯罪です。
でも、姑という絶対女王も老いれば、捨てられる身か。全く嫁虐めと姥捨てはトレードオフだろうか。最初から嫁を大切にしとけば、自分が老いて不自由になった時の、保険になるとも思うが。
ビコさんも同じ様な残酷な経験してんですね。でも日本人て元々こういう残酷な人種のような気もします。人前では律儀で礼儀正しく勤勉だが、内面では相手の弱みに徹底的に付け込む。これは第二次世界大戦の初期と末期にも強く表れてますね。
日本は今でも典型の縦社会です。島国で貧しいが故に、弱い立場の民の犠牲に上に、高度経済成長を成し遂げました。それでいてそういった弱者を見下す。傷口に塩を平気で塗れる民族。
世界はそういった日本人の致命傷を見抜いてる様な気もします。ノモンハンの敗北はそういった日本人の負の特質を突かれたものだと私は思う。
で、私は、実家で、嫁いだら、その家に従わなければならないと教育されていたから、義母にすれば、非常に好都合だったと思います。
私の実家の兄嫁のように、いやなことは全くしないという姿勢でいればよかったかもしれませんが、それを許す義母でもありませんでしたし。
とにかく、前時代的な体験をさせられました。
まあ、ふつうの人は体験できない体験ができたと考えれば、小説のひとつでも書けそうな気がしています。
萩原朔太郎の娘の萩原葉子の『蕁麻の家』のようなのを書いてみようかな?(笑)