〈来栖の独白〉
カトリック教会は11月27日から待降節(主イエスの降誕を待ち望む節季)に入る。昨日、27日からのミサのための選曲を見直していて、聖歌105番『来ませ 救い主』が脱落していることに気づいた。昨年まで感慨深い思いで、待降節に私は、この曲を選んでいたのに。
来ませ救い主 憐れみたまいて 罪とがに沈む われを助けませ よろこべ諸人 主は来たりたもう
5年前、死刑囚藤原清孝が死に向かっていたとき、私は教会のオルガンでこの曲を弾いていた。死刑執行などとは思いもよらなかったが、何故ともなく朝から心騒いで、教会へ車を走らせ、繰り返し「来ませ 救い主」を弾いた。彼の顔に頭巾が被せられ、首にロープが掛けられて、旅立った瞬間も弾いていた。
罪とがに沈むわれを助けるために主よ来たりませ・・・小曲だが、悲劇的な旋律である。
永訣から5年。その間、実に様々なことがあり、清孝のことが遠くになったのだろうか。105番が、待降節の選曲から漏れていた。慌てて、書き込んだ。
それにしてもあの時、もし家にいたなら、死刑廃止運動体の弁護士に唆されて自分でも意図しない動きをとっていたかもしれない。教会から帰宅した私にY弁護士は言った。「勝田さんが死刑に反対して激しく抵抗しました。そのため遺体の損傷が激しい。拘置所が家族に遺体を見せずに火葬にしてしまうことが考えられます。遺体を引き取りに行ってください」。しかし、真相はまるで違っていた。「激しく抵抗」などはせず(名古屋拘置所所長の状況説明)、被害者への詫びと周囲への感謝のうちに(教誨師・遺書の言葉)最後の時を受け容れ、遺体は損傷どころか、安らかで「眠っているような」(斎場の職員の感想)顔で私を待ってくれていた。夕方6時半をまわってなお、温かであった。
113号事件勝田清孝は、2000年11月30日午前11時38分に旅立った。私たちは最後の時、護られていたと思う。主は罪とがに沈むわたしどものところへ来てくださり、迎えてくださった。そういう気がする。( 「来ませ救い主」 2006.11.18 )
こんな思いに耽るとき、きまって意識にのぼるのが、ドストエフスキーの以下のcontextである。
彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのときだれかぼくの魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉にたいして固い信念を抱きながら・・・。三日の後、彼は僧院を出た。『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。
【カラマーゾフの兄弟 米川正夫訳】より
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◇ 私は死んだ人のように忘れられ・・・最期の姿(2)