今夜のN響アワーは、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーさんのヴェートーベン。ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調。指揮、 尾高 忠明さん。第1楽章から強くアピールする。ヴェートーベンの激しさと穏やかな優しさと。尾高さん指揮のN響は、ストリングスがとても良くて、ゲルバーさんのピアノと共に、うっとりしてしまった。大好きな指揮者。それにしても、やはり、ヴェートーベンは深遠である。「ヴェートーベンとは、大病ということで、共通している」というゲルバーさんの言葉が印象的だ。 あの手で、ヴェートーベンの一つ一つの音を、だいじに私たちに届けてくれる。胸がいっぱいになった。
今週は、名フィルを聴きに行く。わくわく。
クラッシックが好きだ。演奏を聴いている時、或いは自分でピアノを弾いているとき、痛感させられることがある。こういう音楽をもっている国では、死刑制度を撤廃できる。こういう音楽をもたない国では、死刑はいつまでも存続するだろう、と痛感する。
>こういう音楽をもっている国では、死刑制度を撤廃できる。こういう音楽をもたない国では、死刑はいつまでも存続するだろう
このようにおっしゃる意味が、何となく解るようで分かりません。教えて!
本日は、ピアノのレッスンを受けに都心へ出かけました。午後はジムへ行く予定でしたのでレッスンだけで帰ってきたのですが、このところ疲労感強く、ジムは怠けました。行けば、愉しい気分になれるのですが、しんどくて。秋葉原の事件と死刑執行のことが頭の中にあり・・・めまぐるしく考えているという状態です。
「教えて!」なんて、そんなことではないんですよぉ~。感じたことを書いただけです。
この2年ほど弾いているのは宗教曲ではなく、ショパンのいろんな曲です。取り立てて宗教曲でなくとも、私はクラッシック音楽の背後に(高みに)絶対者を見るのです。我々は「天に栄光 地に平和」と言いますが、キリスト教圏の音楽は、教会・修道院から生まれ、神と人とのけじめを強く意識させます。「俗」という言葉がありますが、絶対的な神概念をもたない風土では、真の「俗」は理解できないでしょう。「聖」と対峙しての「俗」であるわけですから。
聖書は、旧約の冒頭から、神は創造者であり、その他のものは総て被造物であると宣言します。「髪の毛一本造れない人間であるよ」と。「命」は、勿論の事です。この国では、よく「子どもを造る」なんて言いますが(この言葉を聞くと私は決まって気持ちが悪くなります)、子は、親(人)が造るのではありません。
クラッシックを聴いていると、けじめのついた快さを感じます。天と地のけじめ、創造者と被造物のけじめ、です。
死刑は、命の創造者である神の領域(聖域)に被造物が手を出すことです。
けじめの無い風土の中では、人と人との和(事件があれば、被害者感情への共感と移入)が、最高の善であるかもしれません。そんな風土では司法は、報復の場となってしまう。命を易々と渡してしまう。
そんなことを感じるのです。
よくわかりました。
>宣言します。
ほんと、宣言ですね。創世記っていうから、つい物語りのような感覚で受け止めていましたが。
>けじめの無い風土の中では、人と人との和・・・が、最高の善であるかもしれません。
ルカ12.49~を思い出しました。「さからいのしるし」です。
>私は地上に火をもって来た。・・・私が地上に平和を与えるために来たと思うのか。そうではない、分裂のために来た。・・・父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に・・・対立して分かれるだろう。
大変厳しい言葉です。妥協しませんね。難しいですが、快いです。難しいといえば、宥子さんの御本で引用されているローマ人への手紙ですが、これも難しいですね。しかし、好きな聖句です。
>わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。(6.6,7)
もう一つ。安田弁護士さんと聞くと反射的に思い浮かべる聖句があります。山上の垂訓です。
>義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人のものである。