死刑と無期の境

2010-03-03 | 死刑/重刑/生命犯

死刑と無期の境〔上〕 更生か命の償いか
生きて「刑務所の星」に
 刑法が定める最も重い刑は命を絶つ「死刑」だ。無期限に刑務所で懲役を続けさせる「無期懲役」が次に重い。
 その差は大きい。
 《○○さんの活躍が、私の励みです》。今年の正月、京都府に住む調理師の男性(63)の自宅に1枚のはがきが届いた。差出人の住所は千葉刑務所。自分と同じ無期懲役囚で、ともに刑務所で過ごした仲間からの年賀状だった。
 男性は30歳の時、借金を断られてカッとなり、知人の妻の首を絞めるなどして強盗殺人罪で服役した。「無期」と言っても、改悛が認められれば仮釈放となる可能性はある。男性が仮釈放を許されたのは2008年6月。刑務所生活は31年に及んだ。
 弁護人に「15年もすれば仮釈放だ」と言われて刑務所に入ったが、20年、25年と過ぎていく。「いつ出られるのか」ということしか考えられなくなった時期もあった。
 だが、死刑を求刑されながら無期懲役となった服役囚仲間から「判決で無期懲役と言われたときは涙が出るほどうれしかった」という話を聞き、気づかされた。「被害者は亡くなったのに、私は生きることを許されている」。命を奪った罪の重さを改めて認識させられ、仮釈放を求め続ける自分の姿を「みっともない」と感じた。
 仮釈放に向けた面接に呼ばれたのはそんなころだった。
 社会に戻ってからは母親と暮らし、ほぼとぎれることなく調理の仕事がある。しばらくは携帯電話の使い方にも四苦八苦した。「ぼろが出ないようにとびくびくし、首を縄でつながれているという気分は変わらない」が、生活は自由だ。休みの日には街に映画を見に行くこともある。
 仮釈放で刑務所を離れるとき、門の前で職員に背中をたたかれ、励まされた。「お前は千葉刑務所の星だ。残された無期懲役の者は、お前を目標にして生きている」
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「人を裁くなら、執行見て」
 死刑囚は、刑務所ではなく拘置所で死刑執行を待つ。刑の確定から執行までは、最近では平均で4年ほどだ。
 「私の執行は、いつごろになるんでしょうか・・・」。名古屋拘置所に入っていた川村幸也・元死刑囚(当時44)は08年12月、面会に訪れた三浦和人弁護士に静かに尋ねた。執行されたのは翌月。これが最後の面会になった。
 川村元死刑囚は共犯者とともに名古屋市で女性2人をドラム缶で焼き殺した罪で06年7月に死刑が確定した。1審から弁護人を務めた三浦弁護士によると、確定前にカトリックの洗礼を受けたことで落ち着き、「被害者や遺族のことを考えれば死刑は仕方がない」と納得していた。
 ただその一方で「自分たちは指示されただけで、首謀者は捕まっていない」と訴え続けていた。共犯者のうち2人は同じ死刑を求刑されながら無期懲役が確定していた。「命令されてやったことを裁判長に分かってもらえば、同じ無期懲役にできたのではないか」。三浦弁護士には悔いが残る。
 執行の2週間ほど前、川村元死刑囚は市民団体が実施したアンケートに、こんな一文を残していた。
《わたしの死刑執行をビデオに撮り、司法にかかわる人に、死刑とはどんなものなのか、みて、考えてほしいと思います。司法は人を裁くのです。最後まで知っているべきなのです》
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 死刑か、無期か。それを決めるのは裁判の場だ。昨年8月から始まった裁判員裁判で、市民がその選択を迫られた事例は、まだない。今月28日~3月2日に鳥取地裁で実施される強盗殺人事件の裁判員裁判では、犠牲者が2人であることなどから、検察側が裁判員裁判で初めて被告に死刑を求刑する可能性がある。
 「死刑判決が出てから執行されるまで、どのくらいかかるのか」「仮釈放された無期懲役囚は何年くらい刑務所にいたのか」。裁判員制度の施行前、最高裁は想定問答集を各地の裁判所に配布した。評議の場で裁判員から質問が出たときに裁判官が説明するためだ。裁判員はそれらを踏まえ、判断を下すことになる。
  ◇
 裁判員裁判は2年目に入り、市民がより難しい判断を求められるケースが増えていく。その前に、改めて「死刑と無期懲役の境」を考える。
  無期懲役囚の仮釈放
 受刑者に認められる仮釈放は、無期懲役囚の場合は服役後10年を経過すると可能性が出てくる。ただ、仮釈放者による「再犯」への社会の厳しい視線などを背景に、1980年代半ばごろまでは年間50人に上った無期懲役囚の仮釈放者は90年代は10~20人前後にとどまっている。
 全国の無期懲役囚は2008年末現在で1700人を超えたが、同年に新たに仮釈放されたのは4人。前年は1人だけで、極めてまれになっている。
 最近の仮釈放者の平均在所期間は30年程度だ。

死刑と無期の境〔中〕 裁判官は悩みつくした
 死刑と無期懲役。選択の基準はどこにあるのか。
 女子短大生に声をかけて強姦し、生きたまま焼き殺した服部純也死刑囚(37)は2008年3月に刑が確定した。
 03年10月、1審・静岡地裁沼津支部での公判。検察側の死刑求刑を受けた最終弁論で、弁護人を務めていた橋本正夫さん(62)は、服部死刑囚が被害者の遺族にあてて書いた文章を読み上げた。《考えれば考えるほど自分のしたことの重大性に押しつぶされていくようです・・・》
 教えてもいないのに人の心を打つ文章を書けるなら、更生の可能性はある。死で償うより、一生苦しみながら被害者を供養し、罪を償うべきだ---。橋本さんはそう考え、死刑の回避を求めた。
 04年1月の判決は無期懲役を選択した。納得しなかった検察側は控訴した。
 東京高裁の2審。裁判長を務めた田尾健二郎さん(65)は、1審判決を読んで「被害者が1人であることにとらわれすぎて死刑を避けているのでは」と感じた。
 死刑を選択するかどうかを判断する際、裁判官は必ず、1968年に全国各地で4人をピストルで射殺した永山則夫元死刑囚=97年8月に死刑執行=の事件で最高裁が83年7月に示した「永山基準」という9項目に沿って考える。田尾さんは「結果の重大性、特に殺害された被害者の数」の項目を除けば、残り8項目はすべて、死刑選択を促す要素になっていると思えた。
 1審判決は「周到な計画性がない」「殺人の前科がない」といった有利な事情を挙げていた。犯行のひどさと比べると、極刑を避けることが妥当なのか。高裁の3人の裁判官は検察側、弁護側の立場に何度も立って慎重な検討を重ねた。その末に至った結論は「死刑が相当」。05年3月に判決を宣告。最高裁も維持した。
 田尾さんはいま、裁判員に向けて「死刑は被害者の数では単純に決まらない。あらゆる要素を時間をかけて検討し、納得のいく結論がでるまで悩むのが大事だ」と語る。
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 死刑から無期懲役に減刑されたケースもある。
 山口(当時、その後改姓)礼子受刑者(51)は03年1月、長崎地裁で死刑判決を受けた。交際相手の男と共謀し、保険金目的で夫に睡眠薬入りのカレーを食べさせ、海に沈めて殺害。次男にも睡眠薬を飲ませ、水死させた殺人などの罪だった。
 2審の弁護人を務めた弁護士は10回以上、夫と次男の供養のため写経する受刑者と接見した。その中で、夫が家庭を顧みないなか、夫の身内の高齢女性を世話し、女性から信頼されていたことを知った。同受刑者は法廷でもこの介護の話に触れた。
 04年5月の2審判決。福岡高裁の虎井寧夫裁判長(当時)は死刑判決を破棄し、無期懲役とした。夫殺害について「一片の同情があってもよい」とし、次男の殺害も共犯の男が殺そうとするのを度々妨害した点などを理由に挙げた。判決はその後確定した。
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 最高裁が「永山基準」を示した背景には、永山元死刑囚の判決も死刑と無期懲役との間で揺れ動いたことがある。1審・東京地裁は10年に及ぶ審理の末、79年7月に死刑を言い渡した。
 豊吉(とよし)彬さん(80)は判決にかかわった裁判官3人のうちの1人だ。子どもっぽい印象を忘れない。「生い立ちが不遇で、犯行時は19歳だったことから、死刑を避ける理由を探した。『生の反省の声』を聞きたかったが、最後まで出てこなかった」
 2審に移ると、永山元死刑囚は文通していた女性と獄中結婚し、審理に素直に応じた。心境に変化が見えたことを重視した東京高裁は81年8月、無期懲役に改めた。豊吉さんは「(死刑を避ける)いい情状が2審で出てきて、よかったな」と思ったという。
 その後、最高裁は上告審で「永山基準」を示したうえで審理を高裁に差し戻す。90年5月、死刑が確定した。
 豊吉さんはいま、こう振り返る。「なぜ事件を起こしたかを自らみつめ、反省の声が出てくるには、時間がかかる。死刑かどうかの審理に、時間を惜しんではいけない」

死刑と無期の境〔下〕 終身刑 議論これから
 昨年5月に裁判員制度がスタートする前、国会では、死刑と無期懲役との間を埋める「仮釈放のない終身刑」の導入を目指す動きがあった。
 「二つは天と地ほども違う。『無期では軽すぎるが死刑では重すぎる』と選択に迷う裁判員も多いのではないか」。議員連盟「量刑制度を考える超党派の会」の事務局長をいまも務める平沢勝栄衆院議員は、その理由を語る。
 二つの刑の差を解消したい死刑存置派の議員と、「少しでも死刑を減らしたい」と考える死刑廃止派の議員らが政党の枠を超えて集まった。鳩山由紀夫首相ら民主党の現閣僚のほか、自民党の森喜朗元首相らも名を連ねていた。
 刑法改正案をまとめる段階までいったが、2008年9月に福田康夫首相が辞任して衆院の解散風が吹き荒れた影響で、いま、活動は休止状態に入ったままだ。平沢議員は「議論になれば、すぐに議員立法に動く。成立する見込みは十分ある」と意気込む。
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 1997年5月、奈良県月ヶ瀬村(現奈良市)の道路を車で走っていた男が、帰宅中の中学2年の女子生徒(当時13)に声をかけ、返答がないことに腹を立て、車ではねて連れ去った。三重県の山中で首を絞め、石を頭部に数回投げつけて殺害した。
 捕まったのは丘崎誠人元受刑者だ。「表情の変化が乏しく、激高することもない。暗く、沈んでいるような顔つきだった」。大阪高裁での2審の裁判長を務めた弁護士の河上元康さん(72)は、法廷での印象をよく覚えている。
 1審の奈良地裁では無期懲役の求刑に対し、懲役18年の判決が出ていた。河上さんは法廷で語る反省の言葉を聞くうち、心から出てきた言葉なのか疑問に思ったという。
 00年6月に河上さんは1審判決を破棄し、無期懲役の判決を言い渡す。「罪の重さを深く自覚してほしかった。自覚するにはより時間が必要だと思い、無期懲役を選んだ。有期懲役よりズシッと重みがある」
 だが、上告を自ら取り下げて無期懲役を確定させた丘崎元受刑者は、2審判決から1年3ヵ月後、大分刑務所の窓付近にシャツをくくりつけ、首をつって自殺した。「被告の更生を願って刑を言い渡したのに・・・むなしい」。河上さんは、そう振り返る。
 「仮釈放がほぼ認められない現状から、一生、刑務所から出られないと考えて絶望したのではないか」。この自殺について調べた桐蔭横浜大の河合幹雄教授(法社会学)は、こう考える。
 そのうえで、終身刑の創設論議について「裁判員制度のなかで終身刑という選択肢が与えられれば、量刑に悩んだ市民が『社会から隔離して刑務所に閉じこめておけばいい』という安易な選択に雪
崩をうつ危険があり、刑務所内の秩序維持だけでなく、犯罪者の更生にも大きな影響がある」と懸念する。
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 裁判員裁判を始めるにあたって、各地の裁判所と検察庁、弁護士会は「模擬裁判」を重ねてきた。裁判員役を一般の市民に依頼し、できるだけ現実の法廷に近い形で訓練を続けた。だが、死刑選択が争点となる事件は取り上げられなかった。「現実感を持って考えてもらうのが難しい」というのが理由だった。
 元裁判官の川上拓一・早稲田大教授(刑事訴訟法)は、テレビ局が08年末に企画した模擬裁判で裁判長役を務めた。2人が殺害された強盗殺人事件について、元裁判官3人と市民6人が一緒に判決を考える内容。法曹三者が実施しなかった、死刑選択の判断を迫る裁判だった。
 結論は多数決で死刑だった。川上教授はこの経験から、死刑を選択するかどうかの議論を尽していくなかで、裁判官も裁判員も同じ方向性になっていった経緯が重要だと考える。
 裁判官だった当時、川上教授は裁判長として、3つの事件で計4人に死刑を言い渡した経験がある。「裁判員の心理的な負担は相当大きくなる。精神面のフォローは大事だ」と指摘したうえで、裁判員に向けて「証拠によって認定できる事実に基づいて『もうこれしかない』というところまでギリギリ悩むことが大切。『何となく』で決めたら、悔いが残る」と語る。
 そして、市民が死刑と向き合うことで、終身刑をめぐる議論が再び活性化する可能性もある、とみる。

死刑と無期の境(朝日新聞2010/2/16~18)
心に刺さった母の言葉「名古屋アベック殺人事件」獄中21年の元少年
12.死刑とは何か~刑場の周縁から


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