「アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた」日高義樹

2013-07-19 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

日高義樹 「アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた」
2013年07月18日 公開 日高義樹 (ハドソン研究所主席研究員)
 『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相より
  日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)でマッカーサー司令官の副官を務めるとともに、ガバメント・セクションの部長だったビクター・ジャスティン・ウィリアムズ中佐を訪れたのは1997年11月3日のことだった。ガバメント・セクションは日本に与える憲法を作った部局で、ウィリアムズ中佐は憲法の作成だけでなく、日本政府との折衝にあたっていた。
  ウィリアムズ中佐の住まいは、フロリダ州ベニスのゴルフ場の中にあった。アメリカでは、引退した人々のコミュニティーがゴルフ場に隣接して作られていることがよくある。ランチスタイルと呼ばれる一階建ての瀟洒な家の居間は、占領当時の日本の写真や記念品で埋まっていた。書斎の壁には、吉田茂や徳田球一といった、当時の日本の政治家が一緒に会食している写真がかかっていた。「憲法のことを取材に来ました」と挨拶すると、ウィリアムズ中佐は即座にこう言った。
  「日本の憲法は簡単には変えられない。変えることが難しいように作ったからだ」
  このあと本文で詳しく述べるが、ウィリアムズ中佐が言ったのは、いま安倍政権が改正しようとしている憲法第九十六条のことである。
  憲法九十六条は、国会の両院で、全議員の3分の2の同意による発議によって改正の手続きが始められ、国民投票で過半数の同意がなければ憲法を改正できないと決めている。しかしアメリカやフランスの場合は、憲法改正の発議について複数の方法を決めており、国民投票についてもアメリカの場合は必要としておらず、フランスの場合は必ずしも必要としていない。
  ウィリアムズ中佐によれば、国会の全議員が国会に出席して決議しなければならないという、常識では考えられないような案も出されたという。アメリカは日本という国を変えるために憲法を作り、日本をその憲法で厳しく縛りつけようとしたのである。
  こうして作られた憲法は格調高く、平和主義の理想を貫いている。だがこの憲法が作られた当時と現在では、日本を取り巻く環境が大きく変わってしまった。日本を守ってきたアメリカの軍事力に限界が見え始め、中国が軍事大国になり、北朝鮮までもが核兵器を持つようになった。日本は「昭和憲法」の理想では、国の存続を図ることができなくなっている。
  最も重要な問題は、アメリカ軍によって作られた「昭和憲法」のもとで、政治の権力を手にしながら、軍事や外交と真剣に関わることをしなかった日本の政治家たちが、日本を動かすことができなくなっていることである。
  憲法を改正するにあたって必要なのは、そうした政治体制を変えることだが、このシステムのもとで長い間、日本を動かしてきた日本の政治家たちは、自らの利権と立場を失うような改正を簡単に発議しないのではないか、と私は懸念している。
  軍事力について言えば、国が滅びるような絶体絶命の危機がやってくる日まで、日本の大多数の人々は、戦争については考えずに平和な夢を見続けていたいと思っているのではないだろうか。だが現実には、「昭和憲法」が作り出したシステムは世界の状況に合わなくなっているだけでなく、国の存続を危うくしているのだ。
  日本の現在のシステムの基本になっている憲法を与えるとともに、その憲法を変えることを難しくしたのはアメリカだが、平和主義の理想を貫くその憲法の背後に潜んでいるのは、戦勝国による“報復”である。アメリカの言う侵略戦争に日本が敗れたという前提があり、日本は報復を受けたのである。
  アメリカをはじめとする戦勝国は、日本が始めた戦争を、「領土拡大のための侵略戦争であった」と決めつけた。このため上官の命令に従っただけの下級士官までが、BC級戦犯という名のもとに処罰され、指導者は平和に対する罪という名のもとに処刑された。
  ソビエトはさらに直接的な報復を行った。日露戦争の仕返しとして樺太や千島を奪い、満州や朝鮮も取り上げようとした。そのうえ日本のシベリア出兵に対する罰として、北海道を占領すると主張し、ワシントンで開かれた戦勝国代表による極東委員会の席上、北海道の分割を要求した。ソビエトはさらにポツダム宣言の規定に違反して100万人以上の日本兵をシベリアの収容所に送り、重労働を課した。アメリカ側の記録では、過酷な環境のもとで30万人以上が死亡した。
  アメリカは表面的には、日本を平和国家にするために、平和主義の理想のもとに憲法を作ったことになっているが、「昭和憲法」もやはり日本に対する“報復”の1つだった。アメリカは憲法を作成すると同時に、オペレーション・ブラックリストによって、戦争に関わった日本の指導者をすべて追放し、天皇陛下だけを残して、その周囲をアメリカに近い平和主義者と入れ替えた。
  日本と同じように、第二次世界大戦に敗れたドイツに対して戦勝国は、“報復”という言葉を直接的に使った。ドイツは民族の優秀性を主張したために処罰された。もともとドイツ固有の領土であった東部のプロシアがポーランドとして分割された。ドイツ民族の中心であったユンカーの故郷が滅ぼされてしまったのである。日本に対しては、“報復”という言葉は使われなかったが、「昭和憲法」というのは、アメリカが侵略だったと主張する日本の戦争に対する“報復”であると見るのが正しい。
  ルーズベルト大統領は、宣戦布告なしの真珠湾奇襲攻撃に憤激して太平洋戦争を始めたとされているが、歴史的に見れば、この戦争の発端はそれほど単純なことではない。1940年9月から41年8月にかけて、ルーズベルト大統領は日本に対する原油や屑鉄の輸出禁止令を決定した。日本の命綱を断つ、宣戦布告に等しい行動だった。
  ルーズベルト大統領は、日本が報復としてフィリピンを攻撃するのではないかと恐れた。このため7月26日、フィリピンにいたマッカーサー将軍に対して緊急警戒措置をとるよう命ずるとともに同日、国防総省に対して、最新鋭のB17長距離爆撃機272機とP40戦闘機130機を、フィリピンに派遣するよう命じた。
  この命令を見ても、ルーズベルト大統領が戦争の準備をしていたのは明らかである。だがルーズベルト大統領は、日本からはるか離れたハワイの真珠湾を攻撃されるとは思っていなかった。戦争では、どちらが先に手を出したかを公正に見るのは難しいが、1941年12月8日の真珠湾攻撃以前から、日本とアメリカは戦争に至る宿命の対決を開始していたのである。
  日本の憲法を書き直すにあたっては、まずこうした歴史の流れを見なければならない。日本とアメリカの関係を、歴史という大きな流れのなかで捉え、日本の憲法がいかに作られたか、なぜアメリカが変えることの困難な憲法を作ったかを考察しなければならない。
  「歴史には区切りがない。歴史をたどれば、どこまでも続いていく」
  私がこの30年間、20数回にわたってインタビューした、歴史学者で戦略の大家であるヘンリー・キッシンジャー博士がこう言っている。中国の思想家である孔子も同じことを言った。弟子が残した書物によると、孔子は川のほとりに立ち、「人の世はこの川の流れのようにいつも流れている」と言ったとされている。人の世というのは、つまり歴史のことである。
 日本の人々は、日本が「大東亜戦争」と呼び、アメリカが「太平洋戦争」と呼んだ戦いに敗れて以来、世の中がすっかり変わってしまったと思っている。歴史の大きな川の中に堰を作り、それ以前とそれ以降に分けて考えている。その堰というのが「昭和憲法」である。
  日本の人々は、この憲法以前のことをすべて忘れるか、考えなくなっている。あらゆることをこの憲法に基づいて判断するようになっているが、いまや川の流れが大きく激しくなって、憲法が堰として役に立たなくなっている。昭和憲法という堰は、そもそも人類の歴史から見れば、急場しのぎの、長くは持たない堰だったのである。
  「昭和憲法」は、アメリカが「太平洋戦争」と呼ぶ戦いに勝ち、敗者である日本を徹底的に押さえつけるために作り、日本に与えたものである。日本はこの憲法のもとでアメリカの軍事力の庇護を受け、経済活動に邁進し強大な経済力を持つ国になった。だが太平洋戦争に勝ったあと、世界を動かしてきたアメリカの力は枯渇しかかっている。「昭和憲法」の堰は、もはや歴史の流れを堰き止めることができなくなっている。
  私は1969年に初めてNHKのワシントン特派員になり、翌70年に「日本の戦後」というNHK特集の番組制作の一員に加わった。このときホワイトハウスを担当していた私は、日本分割を話し合った舞台が、ホワイトハウス本館の西にあるイグザクティブ・ビルの2階南西の角にある会議室であることを見つけた。
  残された資料によれば、この部屋でアメリカ、イギリス、ソビエトなど戦勝国の代表によって構成された極東委員会が、日本分割について話し合った。結局は現地司令官だったマッカーサー将軍(元帥。以下同)の強い要求もあり、日本分割は行われないことに決まった。
  同じとき、日本占領軍の行動について詳しく書いた『ニッポン日記』の著者であるカナダのジャーナリスト、マーク・ゲインを見つけ出して、トロントまで飛び、農地解放や財閥解体の話を聞いた。
  その後も私は、日本とアメリカの問題を取材し続けた。マッカーサー司令部のスタッフで「昭和憲法」を作った人々を探し出して話を聞いた。マッカーサーの秘密諜報機関、通称キャノン機関の長で「マッカーサーのお庭番」といわれたジャック・キャノン中佐をテキサスに訪ね、長時間にわたって話を聞いた。ルーズベルト大統領の友人として、アメリカ外交、とくにソビエトとの関係を切り盛りしたウイリアム・アヴェレル・ハリマン大統領顧問とも会って、当時の話を聞いた。ハリマン大統領顧問は、戦後日本の命運を決めたポツダム首脳会談の、実質的な責任者だった。
  日本の経済については、マッカーサー司令部で経済問題を担当したマーカット准将のもとで日本企業の相談役を務めたピーター・ドラッカー博士が、私とのテレビインタビューに応じてくれた。キッシンジャー元国務長官やシュレジンジャー元国防長官、さらにはカーター政権のプレジンスキー安全保障担当補佐官などからも、日本とアメリカの関係について話を聞いた。
  こうして私は40年以上にわたって日米関係を取材してきているが、日本とアメリカの関係は、日本が戦いに負けて与えられた昭和憲法から始まったわけではない。いわんや、憲法が作られるもとになった、太平洋戦争が始まりというわけでもない。
  日本の人々は憲法を考えるにあたって、まずアメリカが、太平洋戦争をまったく自分たちに都合の良い形で日本国民のアタマに詰め込んだことを知らなくてはならない。日本にとって大東亜戦争は、近代国家として生きるための資源や市場を求めての経済戦争であった。だがアメリカはこの事実を全面的に否定し、「他民族を圧迫する侵略戦争である」と決めつけたのである。
  アメリカと日本の対立は、地政学的に見れば宿命的とも言えるもので、歴史の当然の成り行きだった。ヨーロッパから独立したアメリカは、両隣がカナダとメキシコというきわめて弱く脅威にならない国であったこともあり、自然、国力の拡大を太平洋に向けることになった。
  1875年、砂糖についての関税特別協定を結び、1893年には海兵隊を送り込んで内戦に介入し、ハワイを我がものにしたアメリカは、南太平洋の島々を領土にして、ついに1898年、フィリピンを侵略した。その後フィリピンを守るために日本との戦争を想定したオレンジプランを作成した。日本もまた、明治維新が終わり、日清戦争と日露戦争に勝った後、資源を求めて南方に勢力を向け始めた。だが、すでにアジアは西欧諸国に蹂躙されて、ほとんどの国が植民地になっていた。
  アメリカはこうした事実をすべて無視して、日本の進出を侵略戦争だったと主張し、アメリカが戦いに勝ったために、その主張がそのまま歴史になってしまった。勝者が歴史を書くという常識から言えば当然の結果であるが、いま憲法を見直すにあたっては、こうした歴史を無視するわけにはいかない。
  私はキッシンジャー博士や孔子の言葉を持ち出して、歴史は大きな川のように流れるものであると述べたが、日本の人々は半世紀以上にわたって昭和憲法を、歴史という川の流れの堰にしてきた。だが歴史を区切ることはできないし、区切ってもならない。
  私は本書『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』の中で、昭和憲法を日本人に長い間受け入れさせる結果になった4年間の戦いが歴史の中の1コマに過ぎないこと、その戦いに勝った国が憲法の名のもとに新しい国をつくるという行為がいかに不合理なものであったか、を示したいと考えている。
<筆者プロフィール>
 日高義樹 (ひだか・よしき)
 ハドソン研究所首席研究員
 1935年、名古屋市生まれ。東京大学英文科卒。1959年、NHKに入局。ワシントン特派員をかわきりに、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長を歴任。その後NHKエンタープライズ・アメリカ代表を経て、理事待遇アメリカ総局長。審議委員を最後に、1992年退職。その後、ハーバード大学タウブマン・センター諮問委員、ハドソン研究所首席研究員として、日米関係の将来に関する調査・研究の責任者を務める。「ワシントンの日高義樹です」(テレビ東京系)でも活躍中。
 主な著書に、『世界の変化を知らない日本人』『アメリカの歴史的危機で円・ドルはどうなる』(以上、徳間書店)『私の第七艦隊』(集英社インターナショナル)『資源世界大戦が始まった』(ダイヤモンド社)『いまアメリカで起きている本当のこと』『帝国の終焉』『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」(以上、PHP研究所)など。
 *上記事の著作権は[PHP Biz Online]に帰属します 
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◇ 『世界の変化を知らない日本人』日高義樹著 2011年5月31日第1刷 徳間書店 2012-11-06 | 読書  2012-11-06 | 読書 
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
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『帝国の終焉』(「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ)日高義樹著 2012年2月13日第1版第1刷発行 PHP研究所
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『アメリカの新・中国戦略を知らない日本人』日高義樹著 PHP研究所 2013年2月27日第1版第1刷発行 2013-02-28 | 読書 
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