斎藤信也は常識では測れない、一種の異端者。そういう異端者を許容する度量を社会は失ったのか。

2009-11-04 | 社会
新聞案内人.2009年11月04日 水木楊(作家、元日本経済新聞論説主幹)
人物記事に望みたい“切れ味”
 新聞記者の仕事はもちろん文章を書くことですが、その前にもっと大事なことがあります。それは、人物を見分けることです。
 配布された文書をもとに記事にする場合は別ですが、取材をしている相手がどのような人物なのか、嘘をついていないかどうかを見分けなければ、いくら立派な文章を書いたところで、誤った情報になってしまうおそれがあります。
 人物を見分けるのは、実は容易なことではありません。ですから、新聞記者が文章を書く場合、最も難しく、読む側からすると、最も面白いのが、人物評とも呼ぶ人物記事です。その人物記事が最近めっきり少なくなってしまったことを寂しく感じています。
 もちろん、各社とも「人物紹介欄」はあります。新しく役職についた人とか、何か特記すべきことをした人のことを紹介する欄ですが、これは大体、褒め言葉で終始し、人物を深く洞察した上での人物記事とは、少々異なります。
 そんなことを思っていたとき、近刊の『記者風伝』という本を発見し読みました。著者は朝日新聞夕刊の「素粒子」欄を長く執筆していた河谷史夫氏です。伝説の記者たちを紹介した本ですが、その中で敗戦後、夕刊の「人物天気図」という連載を担当した斎藤信也という記者のことがまことに印象的でした。
 人物天気図は斎藤が「葉」の匿名で、101回連載した人物欄でした。あまりに好評だったため、続編が27回追加となりました。斎藤35歳のときです。
 くだくだと説明するよりも、この本にある一節を紹介しましょう。
 運輸官僚出身の政治家で、のちに総理大臣になった佐藤栄作についての描写です。
 「味のない男である。材料は一応とりそろえているようだが、コクのない料理だ。鉄道の役人をやめて、僅々二年、官房長官、政調会長、幹事長と栄職にばかり就いてるんだから、ウマ味の出てきようがない」
 もうひとつ、紹介します。美女の代名詞とされた女優、原節子のことです。
 「美人である。と断定して責任を負うつもりはない。素顔が見えぬからである。撮影中とあって、ドーランとか称する赤茶けた泥のようなものを塗りたくり、吹き込む風のまにまに髪はザンバラ」
 ついでに、もう一人。バイオリストの巖本真理。
 「生意気な女である、と申上げたら彼女の御両親や友人たちは、見当違いもはなはだしいと嘆くだろうが。偽善と妥協のない野育ちの芸術家である、といえば喜ばれるはずだが、当方の『印象』が泣く」
 すごい、のひとことです。うなってしまいます。こんな人物記事が出たら、いまの時代では多分、非難轟々。下手をしたら、訴えられてしまうかもしれません。斎藤の人物記事には、切るか切られるか、抜き身の刃を引っさげた凄みがあります。
 今の時代、面白い人物記事が少なくなったのは、なぜでしょう。記者の人物を洞察する力が萎えたのか、洞察する暇がないのか。
 斎藤は常識では測れない、一種の異端者でした。そういう異端者を許容する度量を社会は失ったのか。
 しかし、最近、ごく短い人物記事ですが、日本経済新聞の政治欄に、「ステーツマン考」という人物記事が連載されました。とても、「人物天気図」ほどの切れ味を望むのは無理というものですが、それでも取材対象が気分を害するかどうかの境界線近くにまで踏み込もうとした、努力の気配はある記事でした。
 深彫りの人物記事が、続々と登場するのを期待したいものです。

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