安保改定の真実(3)岸とアイクが示した日米新時代 岸は即答した「現行安保条約、根本的改定が望ましい」

2015-05-05 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 産経ニュース 2015.5.5 07:00更新
【安保改定の真実(3)】岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」
 昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。
 アイク「午後は予定がありますか?」
 岸「別にありませんが…」
 アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」
 サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。
 昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあったベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。
 アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。
 1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。
 ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。
 「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだ」
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 まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となったことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。
 外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談で、岸はダレスにこう切り出した。
 「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」
 ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力はあるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。
 「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけにはいかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討しよう」
 会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだことは伏せられた。
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 岸-アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。
 岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。
 岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。
 連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派ではないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。
 だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めていた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。
 4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。
 1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサーは即座にダレス宛てに公電を打った。
 「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければならない」
 マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感をにじませている。
 ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。
 アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレスに「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。
 ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。
 「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」
 協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。
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 岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。
 政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸-アイク会談に同席した東郷文彦(後の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのではないか」と記している。
 だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定草案を国務省に送付している。
 ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。
 「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
 ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。
 「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」
 日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。「吉田茂(第45、48~51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」
 マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口一番こう言った。
 「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
 マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定の必要性は十分理解していたのだ。
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 この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。
 外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の交換公文で処理する方針だった。
 昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。
 藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけたところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで検討していることを全く知らなかったのだ。
 岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸-藤山-マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め(2)条約改定-の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。
 「現行条約を根本的に改定することが望ましい」
 交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。(敬称略)

 

   
 ドワイト・アイゼンハワー第34代大統領(左)とゴルフに興じる岸信介首相(中央)。右はジョージ・W・ブッシュ第43代大統領の祖父のプレスコット・ブッシュ上院議員=1957年6月、ワシントン郊外のバーニング・ツリー・カントリークラブ(AP)

   
  岸首相と会見するダグラス・マッカーサー2世駐日米大使=昭和32年3月、首相官邸

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「安保改定の真実」(1)~(8 完)産経ニュース 2015/5/4~2015/5/10 連載
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安倍首相の土産 パター / 『アメリカに潰された政治家たち』 第1章 岸信介 2013-02-25 
  オバマ大統領の“譲歩” 「強い日本」への期待が背景に
2013.2.25 03:10 [産経抄]
 安倍晋三首相はオバマ大統領への土産としてゴルフのパターを持っていったそうだ。会談では祖父の岸信介元首相が昭和32年に訪米したとき、アイゼンハワー元大統領とゴルフをしたエピソードも披露した。その結果を尋ねられると「国家機密」と答え爆笑を誘ったという。▼「国家機密」をバラして申し訳ないが、岸組とアイゼンハワー組は引き分けだった。工藤美代子さんの『絢爛(けんらん)たる悪運 岸信介伝』によれば「極めて外交的な結果」である。プレー自体米国側から持ちかけられた「外交的」なもので、2人は一緒にシャワーも浴びた。▼アイゼンハワーは元軍人だが、柔らかな外交感覚も持ち合わせていた。東西冷戦構造の中、経済復興著しい日本の重要性を認め、岸を最大限にもてなしたといえる。日米はこのときの首脳会談を機に安保条約を改定、同盟関係の強化に向かっていく。▼オバマ大統領は米国内で「クールというよりコールド」と言われているそうだ。余計なジョークやサービスは嫌いな人らしい。だから安倍首相をゴルフに誘うこともなかった。だがTPP交渉参加問題では、日本にとって望外なほど譲歩してみせた。▼関税撤廃に「例外」があり得ることを認めた上、そのことを共同声明で裏付けた。厳しい決断を迫られるとみられた首相にとっても「救い」となったはずだ。しかしそれはサービスなどではなく、岸の時代と同様に「強い日本」への期待と受け止めるべきだ。▼だから今後、経済でも安全保障でも「強い日本」を放棄する行為に出れば、たちまちその期待を裏切る。「冷たい米国」に立ち返ること請け合いだ。政治家や経済人ばかりでなく日本人みんなが心すべきことである。
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〈来栖の独白 2013/2/25 Mon. 〉
 上記[産経抄]を一読、思わず気持ちが昂った。岸氏は大方の国民の認識に反して、対米自主・自立の政治家だった。アイゼンハワーとのゴルフも、岸氏の外交上の戦略だったようだ。
 岸氏は、実に怜悧な頭脳の持ち主で、非常な切れ者だった。1945年、A級戦犯として逮捕され、巣鴨拘置所に拘置、有罪判決を受けて処刑を待つだけの身であった頃、「アメリカとソ連の対立が深まれば、アメリカは日本を利用するために、自分の力を借りに来るだろう」と予測し、そこに望みを託した。「冷戦」という言葉自体、まだなかった時代である。「冷戦の推移は、巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、首を絞められずに(死刑にならずに)すむだろうと思った」と、『岸信介証言録』にある。“昭和の妖怪”と称される岸氏の凄味の片鱗が現れている。現実はその通りに推移した。
 ところで、[産経抄]冒頭の岸とアイゼンハワーのエピソードなどは、オバマ大統領にとって関心は薄いだろう。辛うじて再選されたとはいえ、彼を取り巻く状況は、内政、外交ともに厳しい。再選が黒人やヒスパニックの支持によってなされ、白人や共和党の支持を得ていない片肺飛行で、日中の問題に対処してゆかねばならない。
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秘密保護法 野党とメディアの大声 60年安保に酷似 岸元首相は言った「サイレント・マジョリテイを信じる」 2013-12-08 
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