秋葉原殺傷事件 亡くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈って(2)

2010-01-28 | 秋葉原無差別殺傷事件

(1)からの続き

母の近況と、自分に起こったこと
 事件から約2週間が経ちました。事件後、両親が自宅前で開いた謝罪会見で、母が泣き崩れる場面が何度も報じられました。私は、テレビ画面に映し出された母の姿を直視することができませんでした。母は大丈夫だろうか・・・本当に心配になりました。会見があった翌日、父から突然、
「母さんの具合が悪いから入院させる」
 という連絡がありました。母は、自分が育て方を間違ったせいで、多くの人が命を落としたと責任を感じ、ひどく思い悩んでいるのでしょう。それ以降、母から時おり電話がかかってくるのですが、母は大声で泣きながら、
「ごめんね。ごめんね」
 と、その言葉だけを何度も繰り返すだけです。気持ちが不安定になっているため、強い薬を飲んでいるせいでしょうか、電話越しに聞こえてくる母の声は、呂律が回っていません。
 一刻も早く遺族の方にお詫びをしなければならないのですが、母が苦しんでいる姿を思い浮かべると、すぐにでも母に会いたいという気持ちのほうが、日に日に強くなっています。
 父も事件後、こまめに私に電話をかけてきて、自分の状況や、母の状況を手短に伝えてくれます。
 あれから、私の身にも、大きな出来事がありました。6月15日のことです。万世橋警察署・捜査本部カワシマさんという方が署から電話してきて、
「聞きたいこと、協力してほしいことがあるので、来てください。時間と場所は上司と話して決まったらまた連絡します」
 との電話がありました。万世橋署ではマスコミが多いということから築地署に出向いてほしいと、その日のうちに再び電話がありました。「協力」と言いながら、署の取調室に呼び出されるのは不可解だなと思い、承諾はしたものの、かなり不安でした。
 それでも協力しなければと思い、数時間後に出向くと伝えました。しかしあの日以来、事件のことを考えると体の調子が悪くなる、そんな日々が続いています。このときも体調が悪化したため、担当の方に「日にちをずらしてほしい」と相談するため、指定された携帯電話にかけました。しかし30回ほどコールしても出てもらえず、留守番電話にもなりませんでした。その後に、カワシマさんという方が、
「弟から一切連絡がない」
 と言い、私と関係がある人たちから事情聴取を行い、私の口座番号まで調べたと聞きました。
 事件に関する多くの報道にも目を通しましたが、なかには私が違和感を覚えるものも少なくありませんでした。特にショックだったのはある週刊誌に掲載された、伯父のコメントでした。
「同じ環境で育ったという点からみれば、弟も同じ過ちを犯す可能性がある」
 と伯父は発言し、それがなんの悪気もなく掲載されていました。また、私が高校を中退した後、コンピューター関係の専門学校に進んだという報道も見ました。しかし、私が進んだ先は税理士の専門学校です。私が“犯人”と血が繋がっているとはいえ、警察や報道から私も犯人であるかのような扱いを受け、自分に関する間違った情報が平然と世に流されてしまうとは思いもしませんでした。
 それでも被害者の方の受けた痛みを考えれば、私の受ける社会的な制裁も当然なのでしょう。今回の事件が、あまりに多くの人を傷つけてしまったという、現実の重さを痛感する毎日が続いています。
叱るのも怒るのも理由を説明しない
 前回、私は、私の家の内情について、本当にありのままのことを書きました。
 母が新聞紙の上に食事をぶちまけ、それを兄に食べさせたこと、私たち二人の作文を、母がすべて“検閲”していたこと、テレビは『ドラえもん』と『まんが日本昔ばなし』しか観てはいけなかったこと、そして、“アレ”が母を殴った日のこと----。すべて包み隠さず赤裸々に書いたため、わが家が「奇妙な家族である」と思われた方も多いことでしょう。「うちの家族と似ている」そう思われた方もいるかもしれません。
 たしかに家族の間に相当な距離があったことは事実です。事件後、私の家族に関することが日々報じられましたが、父や母に関することをわたしがあまりにも知らなかったことに、私自身が大きな驚きを覚えました。父が勤め人であることはわかっていましたが、私はこれまで、父の勤務先さえ知らなかったのです。父は信用金庫に勤務しており、母とはその職場で知り合ったこと。(略)
 前回も述べましたが、私は自分が小学校3年生ぐらいになるまでを“ハッピーな時期”と呼んでいます。それ以降、冷え始めた家庭ですが、その頃まではわが家にも、“家族団欒”というものが存在していました。毎週日曜日の夕食後になると、1階の居間に家族全員が集まって、ババ抜き、七並べ、ページワンという順番で、トランプゲームをやるのが恒例でした。無機質で冷徹な殺人鬼になった犯人ですが、負けが込むと犯人は、
「ちくしょーっ」
 などとおどけて悔しがっていました。あの頃、家庭の中に笑顔があったのです。
 兄弟の関係においても“ハッピーな時期”の犯人は面倒見が良く、アレに連れられて、よく一緒に遊びに行きました。一番の思い出は、2人が小学生の時に、近所の空き地に雪を使って2人だけの“秘密基地”を作ったことです。私は壁を作り、アレは雪でテーブルや椅子などの内装作りを担当しました。ただ、作ろうとした基地があまりにも大きすぎたため、結局完成せずに、翌日大雪の中に埋もれてしまいました。
 私が幼い頃から、父が酔って家庭内で暴力をふるい続けていたかのような報道もありました。しかし、父がそんな顔を見せたことは一度もありません。ただ、父が最も激怒したときのことは覚えています。それは私が小学校3年のことです。父と花札をやっていて、私が負けそうになって、ちゃぶ台をひっくり返したことがあったのです。そのときは父に拳で殴られました。ただ、これを「家庭内暴力」というのは、過剰だと思います。
 母も含めて私の家族全員に言えるのは、叱ったり、怒ったりするときに、その理由を説明しないことです。だから私は幼いときから、怒られた理由を自分で考えねばなりませんでした。また、それを不可解なことだと思ったこともありませんでした。犯人が過度に独善的な判断・行動をとるのは、こうしたことが影響しているのかもしれません。
母の学歴劣等感と“10秒ルール”
 作文の“検閲”については前回述べましたが、このことについては、まだ思い出すことがあります。アレが小学校5年生のときです。夏休みの家族旅行で岩手の龍泉洞に行ったのですが、旅行から帰ると母は、アレに旅行に関する作文を書かせました。アレが書いた作文の冒頭は、
「龍泉洞に入ると冷たい空気が僕を包んだ。気温12度に僕は驚いた」
 というものでした。そのときの母は少し機嫌が悪かったようで、何度も冒頭部分をやり直しさせました。「龍泉洞」と書き出した瞬間に、「ダメ」と言って原稿用紙を捨て、「龍泉洞に入ると」と書いては、「やり直し」と言ってまた、原稿用紙を捨てる。その繰り返しが異様だったので、横にいた私はこの冒頭の書き出しを今でも暗記してしまっているのです。
 さらに、母の作文指導には「10秒ルール」というものがありました。犯人と私が作文を書いている横で母が“検閲”をしているとき、
「この熟語を使った意図は?」
 などと聞かれることがありました。熟語を使う意図など考えていないので、答えられずにいると、母が、
「10、9、8、7・・・」
 と声に出してカウントダウンを始めます。0になるとビンタが飛んできます。この問題における正解は、母好みの答えを出すことです。母が求めるのは、教師ウケする答えでした。答えがわからず黙っていると、
「10、9、8、7・・・」
 と再びカウントダウンとビンタが延々と続きます。私が泣いて答えると、またビンタが飛んできます。泣くと、正しい答えを言っても、不正解になるのです。完璧な答え方をするまで、母は許しませんでした。
 今回の報道で、母が大学受験に失敗していたことを知りました。母は“学歴”というものに対してコンプレックスがあったのでしょう。
 私は、母とアレが通った高校とは別の高校に進学したのですが、入学後、携帯電話も持たずテレビを見る習慣もなかった私は、同級生たちから異様な目で見られる存在になりました。そんなこともあって私は高校を数カ月で中退したのですが、高校を辞める条件として母が私に要求したのは、翌年に母と兄が通ったセイコーを受験することでした。当時の私は二度と高校生活に戻る気持ちはなく、セイコー受験も形ばかりのものでしたが、落ちたときの母の怒りは相当なもので、母は2週間ほど実家に帰ってしまいました。それほど、私たちに求めるものが強かったのです。犯人は、そうした母の強い期待に、耐え切れなかったのかもしれません。あの当時、私や犯人に、母自身の考えや、怒った理由などを少しでも説明してくれれば、私たちの人生ももう少し違ったものになったのではないかと思います。(以下略)


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