
〈来栖の独白2008/05/13〉
昨日セブンイレブンで、『死刑弁護人 生きるという権利 』 ・ 『光市事件 裁判を考える』の2冊を受け取る。
『光市事件 裁判を考える』(現代人文社編集部)は、『光市裁判』『あなたも死刑判決を書かされる』(共にインパクト出版会)を読んだ者には、つまらない。佐木隆三氏の頁は、分けても不快である。
『死刑弁護人 生きるという権利 』の安田さんの記述は、幾つかの箇所で強く共感を覚えるものだ。
昨年だったか、愛知県で元妻を人質に男が立て籠もり、警官に発砲して死亡させた事件があった。投降する犯人の姿に、私は、〈ああ、この瞬間から、この人は、一人になることは出来なくなるのだな。常に監視のなかに置かれることになる〉と感じた。この事件ではないが、『死刑弁護人 生きるという権利 』 のなかに、安田さんの以下のような記述があって、奇妙に切ない。
“大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
と慨嘆する。”
安田さんは、次のようにも、言う。
“いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。”
安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3~
まえがき
いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(~p5)
安田さんは既に(今見た犯人に)愛情があるんですね・・・
私も、そんな感覚の持ち主になりたい。
他にも、最近(ここ1,2年)になって気付いた、そういうことの多い私です。何の生活上の苦しみも人間関係の複雑さ・葛藤もなく生きてきました。安田さんの本で痛感させられています。安田さんのような視点、生き方があったのに、私は裕福に生きてきました。
安田さんは、次のようにも言います。
事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが「弱い人」は事情がまったく異なる。(略)
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、1個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私は清孝の生存中、安田さんと会う機会もあったし、アベック殺人事件の公判で安田さんの弁護も傍聴しました。清孝の刑死に際しては安田さんからお詫びの言葉も戴いた。けれど、見ていながら、安田さんを実は見てなかった。見えていなかった。一昨年から、そういう思いが頻りです。
強者は法を曲げての利得をも享受し、術無き弱者は、より弱い者の存在を認めて諦める.....、こういう社会に対して断固異議申し立てをするのが本来の右翼なのに、安田さんが左翼だというだけで、その法律家としての正しい振る舞いまで否定してしまう連中ばかり。
嘆かわしいばかりです。
麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのではなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしていきたいと思っている。
本日の中日新聞「この人」欄に、触法知的障害者の社会復帰に取り組む松本了氏が紹介されていました。刑務所を出た後も犯罪を繰り返す「累犯知的障害者」。彼らを支援するセンターの長でいらっしゃるとか。「犯罪を繰り返す」と書かれていますが、そのように追い込む何かがある、と思います。
このような記事が目につきますのも、rice_shower さんから『累犯障害者』という本を教えて戴いたお陰です。
安田さんの本にも精神病院の凄まじい虐待とも言える実態が報告されていましたが、『累犯・・・』が、理解を助けてくれました。心に残る本です。衝撃を受けて、つらくなりましたけれど。あらためて、ありがとう。
安田さんの言う「弱い人」を、忘れてはいけない。生きるということは、そういう人を心に覚え、胸に抱いてゆくことだと思います。聖書では、正義とは「弱い人のために弁護すること」という概念があります。
「囚われ人だから」というのではなく、それ(囚われ)以前の、例えば親身になって心配してくれる一人もいない、それが弱い状態ですね。たった一人、心から心配してくれる人がいれば、人は生きてゆけるのではないでしょうか。
貴女でも受け入れられる、オタク系の良い解説本が有れば、また紹介差し上げようと思っているのですが、私自身オタクではないので中々.....。
オタク文化を通してみる日本社会の姿もまた非常に興味深いのですよ。 確かに病理的側面も有るかも知れないが、癒し、救いの効果も大きいのですね。 宮崎駿なんて、偉大なオタクですから。