「夫の後始末・その後」 曽野綾子
中日新聞2018/3/5 Mon 夕刊
夫の三浦朱門は2017年の2月3日に亡くなった。この2月3日で1年が経つ。
その間、私は見かけは明るく穏やかに生きてきた。中には、私が以前と同じ家に住んでいるか、とまで聞いて下さった方があったが「私は同じ家で、同じように暮らしております」と笑って答えていた。
何一つ変化を見せたくないような気がする理由の背後には、次のようなこっけいな心理がある。
もし夫の魂が幽霊のように空の高みから今でも我が家を見ているとしたら、私の家の中や庭が急にきれいになったり、それまでにないほど荒れ果てて来たら、夫の幽霊は、他人の家に来たのかと思ってさぞかし迷うだろう。どちらの変化もないほうがいい。ただ、夫が生きていたときから、私は足が冷えて寒い寒いと言って床暖房を考えていたので、その計画だけは続けることにした。
しかし他の生活では、見た目も全く変わらなかった。夫の死後飼い始めた2匹のネコだけが、家族の数を埋める大きな変化である。床暖房を一番喜んだのは彼らだろうと思うと、私は渋い顔になっていたが、同じくらい歳をとった女友達とおかしな会話も交わした。
「もうすぐ死ぬのに床暖房をするんだから、腹が立つ」
と私がぐちると友だちは言い返した。
「もうすぐ死ぬのならお金残さずに使った方がいいじゃないの」
私は夫と実によく喋って日々を過ごした。
最後の入院の時、病院はおそらく回復のきざしは期待できない、と思ったからだろう。「しばらくすると、もうお話をなされなくなると思いますので、今のうちにお聞きになりたいことは、お話しになっておいて下さい」と言われたが、私は「私共はもう60年も一緒に暮らしましたから、充分に話はいたしました」と答えた。
どんな問題についても、そして彼の死後でも、私は夫の答えがわかっているような気がしていた。私たちには基本になる姿勢があった。その姿勢はいくつもあったが、そのうちの1つは、カトリック的な解釈の基盤の上に暮らしていたからだろう。私たちは決して理想的な信者ではなかった。しかし私たちは、人間がすべて神の子であり、神はその人によって彼又は彼女が持っているあらゆる特異な才能をお使いになる、と信じていた。
健康は1つの贈られた資質だが、病弱も人を考え深いものにする。秀才による世の中の進歩の恩恵に私たちはあずかるのだが、あまり頭のよくない子供の誠実さにもうたれて、徳というものはどんなものかを知るのである。
私の心の中では、夫が亡くなっても生きる指針はわかっていたが、私たちの毎日の時間つぶしはお喋りだったので、その相手がいなくなったことには堪えた。
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夫が亡くなって3ヵ月ほど経った或る晩、私は本を読む気力も失った。そういう静かな夜、私たち夫婦は会話をして時間をつぶしていたものなのである。相手のいない夜、友だちに長電話するという人もいる。私はそれだけは自分に禁じていた。自分の虚しさを埋めるために、お酒を飲んだり、麻雀をしたりするのと、長電話は同じようなものであった。
このどん底の気分も、私は現実的な方法で切り抜けた。テレビで、少し硬派の番組を見ることにしたのである。訳はついていたが、多くは、外国語の番組だった。そして自分の知らない世界が、あまりに多いことを覚えると、私は単純に感傷的になっていられない気分になれたのである。
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白〉
私はカトリックで受洗しているが、カトリック教会に心通わせることのできる友人は、数えるほどだ。尊敬できる司祭は一人もいない。
そんな私に、曾野綾子さんは共感できる。若い頃、曾野さんの著作は殆ど読んだものだが、その当時は、あちら(曾野さん)もこちら(私)も、頭で走っていたように思う。特に、曾野さんは、頭の良い人だから。
最近では、曾野さんの書かれたものに、深いところで共感できる私が居る。読んでいて、実に快い。楽しい。
>自分の知らない世界が、あまりに多いことを覚えると、私は単純に感傷的になっていられない気分になれたのである。
全く同感。私はテレビはあまり見ないが、本を読む。楽しいし、あれやこれや読みたいものが多い。
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◇ 夫を在宅介護し、看取って、わかったこと 夫婦とは、こうして終わるのか 曽野 綾子(『週刊現代』2017年10月14・21日号)
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◇ 曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって そのとき、私は覚悟を決めたのです 『週刊現代』2016年9月24日・10月1日合併号
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