サロンコンサート。 国民が死刑宣告(裁判)し、執行命令書に署名し、刑そのものを執行する制度

2009-01-29 | 日録

 本日の名フィルサロンコンサートは、ブラームスの「チェロソナタ第1番ホ短調38」と「ピアノ四重奏曲1番ト短調25」。Vcは新井康之さん。Pfは原田綾子さん。

 午後、パソコンを開けたところ、Fc2(HPのアクセス解析)が急伸していた。〈執行があったな〉と直感。調べてブログエントリしていると忽ち時間が過ぎてしまい、慌てて衣服を革めて飛び出した。幸いコンサートの会場(名フィルの練習場)は近いので間に合ったが、テーブルについた途端に演奏が始まったので、お茶も喫せず、開演前の「わくわく」を味わう暇もなく、ちょっと損した気分。私は、ここのピアノが大好きだ。S/Kawaiではなく、K/Kawaiだけれど、まろやかで本当に良い音。会場へ入ると、いつも先ずピアノを見る。今日は開いていたので、嬉しくなった(サロンコンサートは、演奏曲目が事前には知らされていない)。このところ私はピアノの稽古の時、「左手」が気になる。それで本日は、左手の演奏を注意して聴いた。チェロやヴァイオリンを愉しめばいいのに、左手に集中した。ペダルも気になった。上手い「左手」だった。右手を生かすも殺すも、左手にかかっている。

 本日の死刑執行は、4名に対して為された。死刑制度維持のためには、1名を執行すれば足りる。1月中には執行があるとは予想していた。前任の鳩山さんが、国会会期中の執行の道を拓いた。間隔を短くした。「山林でドラム缶に押し込み焼死させた」態様はおぞましく流石にぞっとさせるが、数ヶ月での大量執行も、重苦しく、やりきれない。
 「裁判員裁判で裁判員に選ばれた場合、量刑まで踏み込んで判断しなければならない。苦しい」という声を聞く。死刑という量刑に直面させられたなら苦しい、と言うのである。
 矛盾している。8割以上の世論が死刑賛成である、と種々のアンケートは報告している。
 国民が(裁判員に選ばれたことが契機となって)死刑について考え(①)、市民(裁判員)が職業上の栄達に左右されずに量刑を選択する(②)。裁判員制度に、もし利点があるとすれば、僅かにこの2点に見出すことができるのかもしれない。
 ならば、もう一歩踏み込んで死刑を考えて欲しい。「(裁判員のように)ランダムに選ばれた国民が死刑執行に立ち会う」とよい。死刑が如何なるものか、全身で知るべきだ。その眼で死刑囚を見、その手で死刑囚に頭巾と後ろ手錠を掛け、その手で執行のボタンを押せばよい。そして、縊られてぶらさがった死体を下ろし、長く飛び出した舌を収め、糞尿の始末をすればよい。そのように、見て、知って、直接に係わるところから議論が始まる。法務大臣と刑務官によごれ役を押し付けていては、事の真相は見えてこない。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/shikei-sonchi.htm「死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い」
 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。
(中略)
 法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。責任はその他者に転嫁される。だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。井上の挑発的な制度は、このような「孤独」の中に国民を投げ込む制度として、再評価できる。


1 コメント

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国民が死刑宣告 (narchan)
2009-01-30 12:30:28
いかなる場合でも、人間が人間のいのちを断つ(殺す)権利はないと思います。自衛権、とか正当防衛権が引き合いに出されますが、自分の命を守る権利が他人を殺す権利を付与することはありえないのです。単なる理屈だと言われればそれまでですが、自分の命を守る行為が偶発的に加害者の命を否定してしまうことになるにすぎないのです。ですから加害者を殺さなくとも自分を守ることが出来る場合は、殺してはなりません。いわゆる過剰防衛の権利は、誰にも与えられていないわけです。もちろん、実際の場合にその様な区別が出来るかどうかは、別の問題ですが、原則は守られねばなりません。
では、死刑の場合人を殺す権利は、何処から来るとされるのでしょうか。国家権力からでしょうか。算数に支えられた市民権でしょうか。いかなる人的権力にも人を殺す権利はないと思います。この原則を否定するなら、論理的結論として、殺人者に殺人権を認めることになります。なぜなら、理由によって人の命を絶ってもよいと言うことになるからです。死刑制度に賛成する人々は、なぜ「合法」であれば人を殺しても良いとする理論をよくよく考えてもらいたいと思います。
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