『差別と日本人』野中広務・辛淑玉著  だからこそ、部落差別は「家族を撃つ」と言われている

2009-07-04 | 本/演劇…など

『差別と日本人』野中広務・辛淑玉(shin sugok)著 2009年6月10日 初版発行 角川oneテーマ21
〈来栖の独白〉
 先週、中日新聞書評で紹介されていた本。実家の近くの書店で見かけ、早速購読した。辛淑玉さんの気迫に圧倒された。差別問題は根が深く広くて、私などにはアプローチすらできそうにない。ただ、仲良しのシスター(京都在)のライフワークであり、彼女からは、多くを教えられてきた。
 『差別と日本人』から、少しの箇所を挙げてみる。
  * * * *
p18~
 差別は、いわば暗黙の快楽なのだ。例えば、短絡した若者たちが野宿者を生きる価値のない社会の厄介者とみなし、力を合わせて残忍なやり方で襲撃する時、そこにはある種の享楽が働いているのだ。それは相手を劣ったものとして扱うことで自分を保つための装置でもあるから、不平等な社会では差別は横行する。そして、あたかも問題があるのは差別される側であるかのように人々の意識に根付き、蓄積されていく。
 時の権力は、不満が集まらないようにするためには、ただ、差別を放置するだけでいい。そうすれば、いつまでも分断されたシモジモ同士の争いが続く。
p34~
野中 中学2年生の時に、「あいつはの人間だよ」って、後ろから歩いてくる連中が言っているのを聞いて、初めて僕は自分が出身者だということがわかった。それからですよ、「なにくそ」と思ったのは。それまでは自分の出自を知らなかったからね、僕は。
辛  そこで潰れなかったのはなぜですか。
野中 まあ、そのことをおれのハンディにしたってしょうがねえんだと。それをバネにして頑張りゃいいんだと思ってやってきたからでしょうね。
辛  「あいつはだ」と言われたときのこと、親には言わなかったんですか。
野中 言わなかった。
辛  なぜ?
野中 なぜって、知らんわ、そんなこと(笑)。

 自分自身の経験を振り返って言えることだが、侮蔑の眼差しを浴びた子どもの大半は、そのことを口にしない。自分から言わないのはもちろん、たとえその事実を問われても、まるで何事もなかったようにはぐらかすものだ。なぜなら、それを認めたら親が哀しむことを多くの子どもは身にしみて知っているからだ。
 だからこそ、差別は「家族を撃つ」と言われている。
 * * * *
 以下は、中日新聞の書評である。

 野中は元自由民主党幹事長、辛は著名な人材育成コンサルタントであり、「まえがき」で各々が述べているように、野中は「出身者」、辛は「在日」である。
 ともに社会的に不利な出自を公言しながらも、会話はすぐには噛み合わない。「民」とはいえ日本人男性であり、長く政権与党の中枢にいた野中に対し、辛は在日の女性として歯に衣着せぬ批判を加えていく。さらに対話の区切りごとに辛が書く解説も辛辣としか言いようがない。
 《野中氏の語る「」には主体的な政策理念や解放思想ではなく、なぜかいつも利権がらみの話がでてくる。に住むわたしの友人の一人はそのことについて、「彼は自民党だったから、良質の運動家は彼には近づかなかったのではないか。だから、具体的な差別の現場で闘っている人との接点が少なかったのではないだろうか」と語った。》
 驚くべきは辛の舌鋒の鋭さよりも、野中の懐の深さだろう。これほど根源的な批判を差し込まれながらの対話を公表するだけの度量のある作家・評論家はまずいない。
 辛も指摘する通り、野中の行動は、沖縄の基地問題をはじめ、「もめごとの処理」の域を出ない場合が多かった。しかしまた、野中ほど人権問題に果敢に取り組んだ権力者もいない。麻生・安倍・小泉等の歴代総理大臣や石原慎太郎と比べたとき、その差は歴然としている。
 なにより出身者だと公言したために野中と家族が被った被害は甚大だった。それは二十歳のとき本名を名乗ることにした辛も同様であって、妻と娘という同伴者は失わなかった野中に向かい、自らの家族や夫との関係を語る辛の言葉はあまりに痛切である。
 差別の歴史も詳述されており、広く永く人々に読み継がれるべき一冊である。(評者 佐川満晴)

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2 コメント

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Unknown (rice_shower)
2009-07-05 01:24:45
こちらでは、お久しぶりです。
あのコメントについて、厳しく叱られてしまったので、遠慮していましたが、この本についてはコメントしないではいられなくなりました。

辛さんの語る、哀しい、寂しい(国)という、一見凡庸な形容詞の、深く、重く、悲痛な響きに、言葉を失う思いでした。
彼女を攻撃する右翼がいたら、私が許さない。
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rice_showerさん (ゆうこ)
2009-07-06 14:24:52
 コメント、心より有難うございます。
 『差別と日本人』には、書写したい箇所はもっともっと沢山あります。が、我々一般日本人の仕打ちが余りに残酷で胸に痛く、今はどうにも写せないのです。以前rice_showerがおっしゃっていた、阪神淡路の震災のことにも触れられていました。長田区に在日の人が多く居住しておられることをカトリックの委員会の関係で私は知っていましたので、当初からメディア報道のあり方に引っかかるものがありました。そのことを辛さんがこの著書の中で触れていましたね。「差別が人を殺した」っていう観点からの番組は皆無だった、と。
 また痛切に響いたいま一つは、ハンセン病・・朝鮮人という、差別の重層。
 辛さんは、実に明確に書いておられ、圧倒されました。これら記述の舞台裏を野中さんは「あとがき」に、次のように書いています。
 “辛さんはこの部分を話すとき、時に嗚咽を堪えながら、また言葉も切れ切れに本心を語ってくださった。”
 rice_showerさんのおっしゃる
>辛さんの語る、哀しい、寂しい(国)という、一見凡庸な形容詞の、深く、重く、悲痛な響きに、言葉を失う思いでした。
 に、重なるものです。
 
 ところで、
>あのコメントについて、厳しく叱られてしまったので
>彼女を攻撃する右翼がいたら、私が許さない
 ここから私の気持を書かせてください。
 私は、ブログに戴くコメントに対して応答することが苦手です。なかなか出来ずにいます。それで、虫のいい話ですが、コメント欄に『ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。』とありますように、「お返事はできないことが多いのですけれども、反映していることは承認(諒解)しています、ということ」と了解戴きたく思うのです。
 そんな私が、rice_showerさんの「あのコメントについて」きつい反応をしました。その心の裡をじっと見詰めました。私の中に、rice_showerさんに対する絶対的と言っていい確信があったのだと振り返るのです。強くて優しい人だ、という確信です。今回も「彼女を攻撃する右翼がいたら、私が許さない」と言っておられますが、過去に幾度もそういった優しい(強さに裏付けられた)コメントを戴きました。この人なら何を言っても受け止めてくださる、そういう確信が私にありました。
 私は名前を掲げてブログとホームページを運営しています。それは来栖固有の立場を明らかにすることであり、言葉を選ばねば人を傷つけることにもなったり、私自身逃げ隠れできない所に自分を置いているということでもあると思います。そんな意味合いもあって、コメントの応酬は出来れば避けたい、というのが本音です。「承認」をもって了として戴きたい、気持です。また、コメントといいながら、感情的な罵りあいの態も、嫌気するところです。
 繰り返しになりますが、rice_showerさんに「あのコメント」をしましたのは、一重にrice_showerさんに対する信頼に他ならなかった、開襟して語ってみたかったから、と申し上げさせて戴きたいのです。
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