政府の「改革見直し」は郵政改革の撤回と同義 日本郵政社長に内定した斎藤次郎氏、小沢氏と緊密

2009-10-21 | 政治
日経新聞 社説1 これは郵政改革の撤回ではないか(10/21)
 政府は郵政民営化を大幅に見直す「郵政改革の基本方針」を閣議決定した。これを受ける形で日本郵政の西川善文社長が任期途中での辞任を表明した。郵政事業の民営化は資金の流れを官から民へと転換させ、経済を活性化する狙いだった。一部地域での住民サービスの低下など問題があるとしても、民営化の青写真を大きく変えれば、日本経済が背負うコストは甚大なものになる。
 基本方針では、日本郵政の傘下に4分社がぶらさがる体制を再編し、郵便や郵便貯金、簡易保険を全国の郵便局で一体的に提供する。郵貯と簡保には銀行法、保険業法とは異なる規制を導入する。郵便局網を地域格差是正の拠点とし行政にも活用する。政府はこれを踏まえ、日本郵政グループの株式売却を凍結する法案を26日召集の国会に提出する。
 多くの疑問が残る。全国規模で丁寧なサービスを展開すれば事業コストが膨らむ。そのコストはだれに負担させるのか。ゆうちょ銀行とかんぽ生命がそれぞれ民営会社として独立して経営するのをあきらめさせると読めるが、せっかく効率を上げ始めたのを後戻りさせないか。
 ゆうちょ銀、かんぽ生命の株式は来年にも市場で売却し始める予定だったが、それを長く凍結すれば政府の信用をバックに民間金融機関の経営を圧迫することも予想される。
 それにも増して、郵貯、簡保を通じて入る資金を、政府が唯一の株主である日本郵政グループが一元的に管理すれば、何のことはない、以前の郵政に戻る。実際、亀井静香郵政担当相は郵貯などの資金を地域振興に投じる考えも示している。
 財政投融資制度の下で巨額の郵貯・簡保資金が特殊法人や国、地方自治体などに流れ非効率に使われた。これを改めて民間部門でより有効に使い、経済活性化に役立てるのが郵政改革の理念だったはずだ。
 西川社長の辞任に至る経緯も郵政改革の今後に暗い影を落とす。三井住友銀行の頭取を務めた西川社長は小泉純一郎元首相に請われ日本郵政社長に就いた。宿泊施設「かんぽの宿」の売却が不適切だったという声は前政権下で自民党からも出ていたが、総務省などの調査では明らかな不正は出なかった。民主党や国民新党も新事実を示していない。
 民間人に経営を委嘱しておきながら、いじめに近い仕打ちをし、果ては方針転換を理由に辞任を迫るのでは今後、民間人が進んで来てくれるだろうか。それも含め考えれば政府の「改革見直し」は郵政改革の撤回と同義と見なさざるを得ない。
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新S 編集局から
朝日新聞
 「カメラの音がうるさくて話せない。カメラがどいていただかないと話せない」。日本郵政の西川善文社長の記者会見は、不機嫌そのものの様子で始まりました。鳩山首相らが再三にわたって辞任を求めても、応じる気配を見せなかった西川社長がついに辞任を表明しました。会見では「サービスレベルの向上など相当効果があった。思い残すことはない」と言う一方で、「やり残したことを言えばきりがない」とも。紙面では、異例の展開の舞台裏と今後の課題を紹介しています。(圭)
日本経済新聞
 日本郵政の西川善文社長が20日、辞任の意向を正式に表明しました。政府が同日閣議決定した郵政事業の見直し方針について現在の経営路線と「大きな隔たりがある」とし、もはや郵政改革の責任者を務めるのは困難と判断したためです。後任は民間からの起用が有力になっています。郵政改革は「官から民へ」の象徴として進められてきました。民間にできることは民間に任せ、競争原理を働かせてサービスの効率を追求する。この大原則が崩れるとすれば、西川辞任は日本の今後に大きな影響を残すと危惧します。(井)
読売新聞
 日本郵政の西川社長が辞任を正式表明しました。閣議では郵政民営化の見直しが決定され、小泉改革路線転換の節目の日となりました。4年前の郵政選挙で自民党を離れた亀井郵政改革相が主導した転換ですが、亀井氏に刺客を放った小泉元首相はきっとこう言ったのではと想像します。「戦いは勝つ時もあれば、負ける時もある」。石油危機の際に用意した配給切符72億枚が美術館並みの空調を備えた倉庫に30年間眠り、10数億円がムダに。社会面をどうぞ。(尾)
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日本郵政社長に内定した斎藤次郎氏 民主・小沢氏と緊密な関係
産経ニュース2009.10.21 10:35
 日本郵政の西川善文社長の後任に内定した東京金融取引所社長、斎藤次郎元大蔵事務次官(73)は、小沢一郎民主党幹事長が自民党の竹下登政権で官房副長官を務めていたころから20年来の付き合いがあり、平成5年に小沢氏が主導して実現させた細川連立政権のもとでは、現職次官として小沢氏と緊密に連携して政策を推進していた。
 斎藤氏は東大法学部卒業後、昭和34年に大蔵省(現・財務省)に入り、5年から7年まで事務次官を務めた。次官在任中の6年2月には、細川護煕首相(当時)がぶち上げた「国民福祉税」構想を小沢氏とともに主導。ただ、与野党からの反発で同構想は頓挫し、自民党の政権復帰後の7年5月に次官を辞任した。

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