物理の秀才・広瀬健一が麻原の「浮揚」を信じた瞬間 <教団エリートの「罪と罰」(5)>
2018.7.26 12:19 週刊朝日#オウム真理教
医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。26日に死刑が執行された、東大卒の死刑囚・豊田亨、麻原の「浮揚」信じた物理の秀才・広瀬健一。地下鉄サリン事件から17年となった2012年、最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。
■東大卒の死刑囚
<豊田亨(とよだ・とおる)>
(1)生年月日:1968年1月23日
(2)最終学歴:東大大学院理学系研究科中退
(3)ホーリーネーム:ヴァジラパーニ
(4)役職:科学技術省次官
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):菩長
兵庫県の旧家に生まれ、1986年に現役で東大に合格した。文武両道で、理学部物理学科で学びながら、少林寺拳法部では三段を取得。几帳面にとったノートは、友人に重宝がられた。性格も温厚で、周囲から信頼される好青年だった。
「必ずノーベル賞を取る」
友人にこう語るほど熱心に物理を学び、90年に同大大学院へ。成績上位の1割しか入れない難関の研究室で、素粒子理論を研究した。
オウムへは、東大合格時に書店で麻原の本を見かけたことがきっかけで入信した。しかし、学生時代の友人に自身の信仰を明かすことはなかった。
オウム真理教が衆院選に出馬した90年には、趣味のギターを弾きながら「ショーコー、ショーコー」と教祖の歌まねをして友人を笑わせた。血を見るのが嫌いで、同級生が医学部の解剖実習の様子を語って聞かせようとすると、
「堪忍しとくんなはれ」
と逃げ回ったという。
修士論文試験の最中だった92年4月に突然出家。麻原から直接説得され、その日のうちに決めた。家族や友人の元には、
「彼女が重病で、あと半年の命だ。最期を看取りたいので捜さないでくれ」
という内容の手紙が送られてきたという。
まじめな性格が災いし、教団では次第に危険な思想に染まっていく。教団の反社会的な側面を知った時は、
「我々は極めて危険なことをやろうとしているのではないか」
と思ったというが、教団幹部の村井秀夫に、
「危険なことはやりたくない、と考え、尊師の指示に従わないのは自分の煩悩であり心のけがれである」
などと言われて疑念を封印してしまった。
地下鉄サリン事件では、実行犯として地下鉄日比谷線恵比寿駅でサリンをまいた。その後も東京・新宿青酸ガス事件や、東京都庁小包爆弾事件などに関与し、4件の事件で起訴された。
法廷では、教祖を批判することが多かった他の信徒に比べて感情を表に出さず、寡黙に振る舞った。その点について問われると、
「これ以上、多くの方に不快な思いをさせる行為は慎まなければいけない」
と語った。2009年11月、上告が棄却されて死刑が確定した。
■「浮揚」信じた物理の秀才
<広瀬健一(ひろせ・けんいち)>
(1)生年月日:1964年6月12日
(2)最終学歴:早大大学院理工学研究科
(3)ホーリーネーム:サンジャヤ
(4)役職:科学技術省次官
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):菩長補
物理学の秀才は、科学の法則より教団の「奇跡」を信じ、破滅への道を歩んだ。
小学校時代から剣道に打ち込み、明るく温厚で勉強熱心。通知表に「包容力 統率力 絶対的な信頼」と書かれる優等生だった。
1987年春、早大理工学部の応用物理学科を首席で卒業し、同大大学院修士課程で超伝導を研究。同年6月、担当教授と連名で作成した論文を京都の国際会議用に送ったが、認められなかった。
この“挫折”が影響したのか、次第に瞑想などにのめりこんだ。自身の体験談によれば、88年3月、教団の書籍を読んでいる時に、「『バーン』と、突然発破を仕かけたような爆音が体を走りぬけた」
そのため、オウム真理教のヨガ道場に通い始め、同年10月には内定していた大手電機メーカーの研究所への就職を断って出家。
止めようとした担当教授から、「空中浮揚は慣性の法則に反している。学問を積んだ者が、なぜバカなことを信じるのか」
とただされたが、「見た」と譲らなかった。だた、空中浮揚の矛盾には気付いていたらしく、逮捕後に当時の心境を振り返って、
「(空中浮揚を力学的に測定した)データを見せてもらったが、明らかに脚の力で跳んでいた。それを見てもおかしいと思わず、教義への信を失わなかった」「麻原を信じていたから、としか言えない」
と、複雑な思いを語った。90年2月の衆院選では、埼玉5区から出馬するも落選。地下鉄サリン事件には実行犯の一人として加わり、丸ノ内線御茶ノ水駅付近でサリンをまいた。
旧ソ連製のAK74をモデルにした自動小銃の製造にもかかわり、試作銃一丁を組み立てた。
逮捕後は黙秘を続けていたが、脳に関する書籍を読み、脳内物質の作用によって、"神秘体験"に似た現象が起きることを知る。このことや裁判での麻原の言動への不信感がきっかけとなり、教団の教えと決別した。
2009年11月に死刑が確定。裁判中に被害者の悲痛な叫びに接し、一時は精神状態に変調をきたすこともあったが、
「多くの人を苦しめ続けている私の罪は、私の命をもってかえるしかない」
と、最後は淡々と罪を受け入れた。
※週刊朝日 臨時増刊『オウム全記録」(2012年7月15日号)
◎上記事は[dot.]からの転載・引用です
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「サリンを『サリーちゃん』と呼んでいた」オウム幹部 広瀬健一死刑囚【死刑執行】
2018/7/26(木) 10:35配信 FNN PRIME
地下鉄サリン事件などで死刑が確定したオウム真理教の元幹部、広瀬健一死刑囚の死刑が執行された。
東京出身の広瀬死刑囚は、早稲田大学理工学部応用物理学科を経て、早稲田大学大学院へ進学。
在学中に松本智津夫元死刑囚の著書を読んだことでオウム真理教の教義に惹かれていった。
広瀬死刑囚が教団に出家したのは大学院卒業後の1989年のこと。後に刺殺される村井秀夫幹部率いる「科学技術省」に所属した。
*武器製造を担当
地下鉄サリン事件の二年前、教団の武装化を推し進める松本元死刑囚は、約1000丁の自動小銃を量産することを計画。
武器製造担当となった広瀬死刑囚が中心となり、旧ソ連製の自動小銃「AK74」を参考に銃を密造し、ロシアで射撃練習もしていた。
そして、地下鉄サリン事件では、救済につながると信じ、サリンの散布役を承諾したとされている。
弁護側は、「マインドコントロール下にあった」として死刑回避を求めたが、最高裁は「法治国家に対する挑戦ともいうべき犯行で、犯行態様は残虐で、非人道的というほかない」と指摘、2009年に死刑が確定した。
死刑が確定した後は、2015年に元信者の裁判員裁判に出廷し、教団内で、サリンのことを「サリーちゃん」や「魔法」という隠語で呼んでいたことを証言。
一方で、「地下鉄でサリンを撒く指示を受けた際、多くの方が亡くなると思った」などと述べていた。
最終更新:7/26(木) 12:58 FNN PRIME
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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