1人の女を奪い合い死者13人…戦時下の悲劇「アナタハンの女王事件」【大量殺人事件の系譜】
2016.08.15 雑学
相模原の惨劇から3週間、大量殺人事件はこれまで幾度となく繰り返されてきた。「事件は社会を映す鏡」という。いくつかの事件を振り返りながら、浮かび上がってくる時代と事件の背景を探り、大量殺人事件の系譜を考察してみる。
アナタハン島 1950年当時の「アナタハン島」
南洋上の孤島に、1人の若い女性と32人の男、計33人の日本人が取り残され、共同生活を始める。はじめは食べること、生き残ることに誰もが必死だった。やがて男たちは、欲望を剥き出しにして唯一の女を奪い合い、図らずも激しい殺し合いが始まる。命を落とした男は13人。わずか70年ほど前、想像を絶する悲劇が現実に起こった――。
太平洋戦争に翻弄されたが故の大量殺人事件「アナタハンの女王事件」が起きたのは、1945(昭和20)年から1950(昭和25)年にかけてだった。
1944(昭和19)年6月中旬。物資輸送に従事するため、海軍に徴用された漁船3隻が横浜港から太平洋上のトラック諸島を目指していた。マリアナ諸島近海にさしかかったころ、米軍機B29の襲撃を受け沈没した。軍人や軍属である乗組員31人は、命からがら近くの島に上陸。そこがアナタハン島だった。サイパン島の北150キロにある小島だ。
誰もいないと思われた島には、日本人の男と女がいた。妻子をサイパン島に疎開させていた農園技師の男性。一方の女性は、この農園技師の部下を夫とする比嘉和子(22)だ。色黒で切れ長の目、健康的な肢体を持っていた。夫はバガン島にいる妹を迎えに行ったきり、空襲で戻れなくなっていた。
20代を中心とした漂流者たちと島にいた2人、計33人の共同生活が始まった。米軍の空襲が激しさを増す。食糧は魚やタロイモ、バナナ、ヤシ蟹、ネズミなどだったが、1ヶ月もすると大方が底をついた。食糧を安定的に確保する必要上、数人ずつ分散して生活するようにした。和子は夫の上司である農園技師と肉体関係を結ぶようになり、2人で暮らしていた。1945年8月15日が過ぎても、アナタハン島の日本人たちは終戦を知る術がなく、それまで通りの生活が続いていく。
やがて、和子と農園技師が正式な夫婦ではないことを知った他の男たちは、平静さを失っていく。加えて、墜落した米軍機から拳銃を見つけたことで、男たちに力学が生じた。拳銃を入手したAは農園技師を脅し、和子を連れ出し同棲するようになる。しかし1ヶ月近く経ったころ、Aは行方不明になる。拳銃を奪った農園技師がAを射殺した、といわれている。
悲劇は連鎖する。拳銃を受け継いだ軍属のBは、農園技師をあっさりと射殺し和子と暮らし始めたものの、10ヶ月後、そのBも射殺体となって発見されたのである。和子をめぐって争い、3人の男が殺されたことになる。渦巻く疑心暗鬼。拳銃があるからいけない。凶器は解体され、海に捨てられた。それでも、今度は刃物による殺人が後を絶たなくなる。転落や食中毒など奇怪な死も連続していた。次第に減っていく男たち。
このままではいけない。争いが起きぬよう和子が1人の男を選び、それを全員の協議で承認した。ただ、何事にも大らかだった和子は、求められれば他の男と寝ることを厭わなかった。男たちの欲望と嫉妬と殺気が、再び大きな海流のように和子をめぐり、「殺人」は終わらない。その責任を和子に求めるのは酷だが、たった1人の女の存在が「連続殺人」を引き起こしていたこともまた事実であった。
■「内地は島より怖い」故郷・沖縄で再婚した和子の言葉
6年が過ぎた1950(昭和25)年4月。32人の男のうち殺人と怪死、病死を含め13人が死亡し、19人に減少。和子は28歳になっていた。揉め事と殺しが絶えない中、男たちは恐ろしいことを考えついた。
「和子がいるから争いが起こる。すべての元凶の和子を処刑し、平穏な生活を取り戻そう」
この計画を1人の男からリークされた和子は、米軍の船に助けを求め救出された。翌年、残っていた19人も帰還を果たした。
桐野夏生は、このアナタハン島での史実をもとに小説「東京島」を創作。木村多江、窪塚洋介らが出演して映画化もされた。
緊迫する戦時下、孤島での異常な心理状態がもたらした殺人は、不可避性があったというべきなのか。帰国後も悲哀のドラマは終わらない。ある男は、帰国の2年前に戦死の公報が妻に届き、妻は男の弟と再婚し子供までもうけていたのだ。男は結局、妻と子供を改めて受け入れることになった。
和子の夫は、既に帰国し他の女性と結ばれていた。失意の中で「アナタハン事件」は映画化されるなど、和子は好奇の視線に追いかけられた。場末のストリップ劇場に出演し、落ちていく和子。このころ「内地は島より怖い」と、和子は漏らしたという。34歳になったとき故郷・沖縄で再婚した和子は、仲睦まじい家族に恵まれ、ようやく安息を手に入れた。そして、1974(昭和49)年に脳腫瘍で倒れ、わずか52年の数奇な生涯を閉じた。
戦後71年、8月15日は終戦記念日だ。今年5月には、広島を訪れたアメリカのオバマ大統領が、被爆者と言葉を交わし、献花し、祈りを捧げた。そして、平和記念資料館の芳名録に、
「私たちは戦争の苦しみを経験しました。ともに平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」
と記した。アナタハン島で終戦を知らずにいた32人もまた、大きな「戦争の苦しみを経験」した犠牲者ともいえよう。アメリカの現職大統領が被爆地を初めて訪問したことは、戦後の一つの節目と捉えることができる。ただ、先の大戦の傷跡は、思わぬ人々の心にも沈殿したことを忘れてはいけない。
<取材・文/青柳雄介>
◎上記事は[日刊SPA! ]からの転載・引用です
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