〈来栖の独白 2016.3.25 Fri.〉
本日、鎌田安利死刑囚と吉田純子死刑囚に対する死刑が行われた。御二人へ哀悼の意を捧げながら、もう一方の側について思いめぐらしてみたい。
私は勝田清孝と生きるなかで、単純粗雑に「死刑は国家による殺人である」と思い込んできた。裁判官が判決し、拘置所が身柄を拘束し、法務大臣が企案書に判を押し、刑務官がボタンにスウィッチを入れるのだから、死刑は総て国家の仕業と思って疑わなかったのである。そうであるなら、刑務官は、直接の下手人である。
が、果たしてそうだろうか。
死刑の執行は、法務省官吏が企案書を作り、法相へ上げることで具体化する。いや、そもそもその前段階として、裁判員裁判(一審)で死刑が判決され、2審を経て、最高裁が原判決を認めたなら確定する。確定したなら、その日から死刑囚は、執行に向けて厳重に拘置、管理される。
よって、死刑執行は下手人によってなされるわけではなく、また法相によってなされるわけでもなく、その種は裁判員の胸の裡に内包されていたと言えるかもしれない。
いや、もう少し突き詰めてみるなら、僅か数人の裁判員ではなく、死刑制度を是とする圧倒的多数の国民こそが、本日の死刑執行の主犯といえるのではないか。死刑は「国家」による殺人ではなく、「国民」による殺人であると、私はここ数年、考えるようになっている。
であるなら、「死刑はいけない」と唱える側の人びとの成熟こそが切望される。「死刑にせよ」と叫ぶ人々を納得させるに足る「人格」こそが急務である。
以下、アムネスティ・インターナショナル日本による「死刑執行に対する抗議声明」である。何ら人の心に訴えるものもなく、ありきたり、陳腐な内容。
死刑執行に対する抗議声明
アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、福岡拘置所の吉田純子さんと大阪拘置所の鎌田安利さんに死刑が執行されたことに対して強く抗議する。
岩城光英法務大臣は、昨年10月に就任してから12月に2名をすでに執行し、その3カ月後である本日に2名、計4名というハイペースで執行を進めている。安倍政権下では、2006年の第一次安倍内閣と合わせて実に26人が処刑されたことになる。近年の政権では、極めて突出した執行数であり政権が命を軽視していることの表れである。
鎌田安利さんは75歳という高齢であった。高齢者の死刑囚に対する死刑執行は、国際的には未成年者や精神疾患を有する者に並び、残虐であるため禁止すべきとされている。
世界では事実上死刑を廃止している国を含めると、140カ国と大多数が死刑廃止国である。OECD(経済協力開発機構)加盟国の中で死刑制度を維持しているのは、日本以外では米国だけである。その米国でも、死刑の判決数・執行数は激減し、毎年のように死刑を廃止する州が増えており、死刑廃止へ舵を切っている。
国際的には、この残虐で非人道的な刑罰を維持することは、死刑廃止の潮流に対して背を背け、人権を無視した少数国であると見なされる。国際社会をリードする役割を担うG7伊勢志摩サミットのホスト国として、今回の死刑の執行は極めて残念である。
死刑は生きる権利の侵害であり、残虐で非人道的な人の尊厳を傷つける刑罰である。アムネスティは日本政府に対し、死刑廃止への第一歩として公式に死刑の執行停止措置を導入し、全社会的な議論を速やかに開始することを要請する。
2016年3月25日
アムネスティ・インターナショナル日本
※死刑執行抗議声明における「敬称」について アムネスティ日本は、現在、ニュースリリースや公式声明などで使用する敬称を、原則として「さん」に統一しています。また、人権擁護団体として、人間はす べて平等であるという原則に基づいて活動しており、死刑確定者とその他の人々を差別しない、差別してはならない、という立場に立っています。そのため、死刑確定者や執行された人の敬称も原則として「さん」を使用しています。
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〈来栖の独白 続き〉
勝田清孝が亡くなって(受刑して)15年が経過した。生存中、私どもは、いわゆる死刑廃止運動体の群像に悩まされた。そもそも、勝田の手記を読んだ私が拘置所の勝田に手記の感想文のような手紙を出したのが交流のきっかけだったのだが、その当初においてさえ、死刑廃止運動体からの働きかけにさんざ悩まされていた勝田は、私のことをその種の活動家と誤解したのであった。猜疑心強い勝田の誤解を解くのは容易ではなかった。
臨床心理士・長谷川博一氏の著書『殺人者はいかに誕生したか』には、氏も蒙った死刑廃止運動体からの「壁」が書かれている(第4章 光市母子殺害事件 元少年A)。
が、ここでは、[第1章 大阪教育大付属池田小学校児童殺傷事件 宅間守]から、浅薄な運動家についての短い記述を書き写してみる。
p32~
詳しくは触れられませんが、彼の妻は死刑廃止論者で、当初は死刑を考える彼を認めていませんでした。それを知っている彼は、「○○さん(妻)には本音で話せへんのや」と私にぼしていました。私は妻に、「結婚した以上、あなたは運動家ではなく、妻なんですよ」と言い、二人が真の夫婦になれるよう間接的に励ましていました。長い葛藤の末、妻は夫の気持を受け入れるようになっていきました。そして彼が「やっと、○○さんに本音が言えましたわ」と照れ笑いしながら話せるようになって、その段階で用いるようになったのが「分かちがたく」の理論だったのです。
死刑廃止運動体の人たちは、死刑廃止を究極の正義の理想と信じて疑わないようだ。死刑囚というのは、その理想実現のための素材に過ぎない。こういった極端な人たちに私は多く接してきた。
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* 尾形英紀氏「将来のない死刑囚には反省など無意味」 / 安部龍太郎著『等伯』魂を売りわたすのと同じことだ
(前段略)
弟(勝田清孝)が争った事実関係は、神山さん事件における殺意の有無であった。これを裁判所はどうしても認めてくれなかった。8人殺害という大罪の中から上訴するのは、詫びと引け目のなかで小さくなって生きる弟には身の縮むことであったが、自分への有利不利を超えて被害者とのあいだの真実を明らかにしたい、と訴えた。
それゆえ、刑確定してからは、社会にわずかに貢献できる点訳に没頭した。犯した罪は大きいが、罪(真実)を洗いざらい告白することで真人間に生まれ変わり、人間らしい心で生きてゆきたいと願った。
弟の認識する「人間らしい」とは、どういう状態だろう。罪を犯し、囚われて死刑を目前にして生きる者の「人間らしい」生き方とはどういう状態だろう。弟が限られた時間を「点訳」に心血を注いだ姿を思い出す。面会でも書信でも、点訳について、時間や紙幅を割いた。「貢献」という言葉を多く口にした。
受刑(死刑)による詫びという覚悟はあったようだが、生きている間、わずかに許された点訳で社会に貢献したかったのだと思う。「憂愁に閉ざされたままでおられる遺族の方々の心情に思いを馳せると本当に申し訳なく、非道に人を苛む行為を繰り返した私には、日々三度の食事を与えて頂くことすら勿体ない」(手記)との思い、そして貢献したいとの二つの狭間で生きた。
人には生まれながらにして「良心」というものが備わっているのではないだろうか。悪いことや卑劣なこと、人を痛めたりすれば、胸が痛んだり後悔したりし、謝りたいと思う。思い詰めて自裁したりもする。そんな気持ちが自然と湧いて来るのではないだろうか。この心は、将来を思ってのことではないだろう。
尾形氏は「将来のない死刑囚は反省など無意味です」と云い、「死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました」と云われる。死刑制度是非を闘わせるテクニックとしては、説得力があるだろう。死刑制度の盲点、死角を突いたかに見える。が、空しい。人間性の何であるかをわきまえておらず、表層のやりとりの次元で止まっている。
死刑廃止論が「人間性」を置き去りにし、テクニックに走る限り、国民の共感は得られないだろう。目の前にいるのは死刑囚である以前に「人間」であり、人は人のために自分の命を投げ出すことさえできる生きものだ。「士は己を知る者の為に死す」という中国、春秋戦国時代の言葉もある。
いかなる状況に置かれても、自分の心は自分のものだ。この世から死刑を宣告されたとしても、魂まで売り渡してはならない。売り渡してよい理由にはならない、と私は思う。安部龍太郎著『等伯』は、そのことを言っている。“ だがここで何もしなかったなら、夢の中で利休が言ったように門外の者になってしまう。それは絵師の魂を売りわたすのと同じことだ。”と。
死刑囚だった弟との日々、多くの死刑廃止運動者が私の周囲にもいた。死刑廃止論理を巧妙に操る人もいた。しかし、「死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました」と云われたとして、それが私の心に響いたとは思えない。解決や救済に繋がったとは思えない。
伝聞によれば、尾形死刑囚は動揺が激しくて相当暴れたらしく最期は担ぎ上げられて刑場に運ばれていった、とか。真偽のほどは判らない。もしそうであるなら人間の最期としては、むごい、相応しくない。刑務官も心中泣きながら職務を遂行したのではないか。このような刑務官の苦役を想う時、死刑制度の苛酷が胸に迫ってやりきれない。
論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
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◇清孝が死刑執行されたとき、私はこの曲を弾いていた。 2005-11-22
カトリック教会は11月27日から待降節(主イエスの降誕を待ち望む節季)に入る。昨日、27日からのミサのための選曲を見直していて、聖歌105番『来ませ 救い主』が脱落していることに気づいた。昨年まで感慨深い思いで、待降節に私は、この曲を選んでいたのに。
来ませ救い主 憐れみたまいて 罪とがに沈む われを助けませ よろこべ諸人 主は来たりたもう
5年前、死刑囚藤原清孝が死に向かっていたとき、私は教会のオルガンでこの曲を弾いていた。死刑執行などとは思いもよらなかったが、何故ともなく朝から心騒いで、教会へ車を走らせ、繰り返し「来ませ 救い主」を弾いた。彼の顔に頭巾が被せられ、首にロープが掛けられて、旅立った瞬間も弾いていた。
罪とがに沈むわれを助けるために主よ来たりませ・・・小曲だが、悲劇的な旋律である。
永訣から5年。その間、実に様々なことがあり、清孝のことが遠くになったのだろうか。105番が、待降節の選曲から漏れていた。慌てて、書き込んだ。
それにしてもあの時、もし家にいたなら、死刑廃止運動体の弁護士に唆されて自分でも意図しない動きをとっていたかもしれない。教会から帰宅した私にY弁護士(電話)は言った。「勝田さんが死刑に反対して激しく抵抗しました。そのため遺体の損傷が激しい。拘置所が家族に遺体を見せずに火葬にしてしまうことが考えられます。遺体を引き取りに行ってください」。しかし、真相はまるで違っていた。「激しく抵抗」などはせず(名古屋拘置所所長の状況説明)、被害者への詫びと周囲への感謝のうちに(教誨師・遺書の言葉)最後の時を受け容れ、遺体は損傷どころか、安らかで「眠っているような」(斎場の職員の感想)顔で私を待ってくれていた。夕方6時半をまわってなお、温かであった。
113号事件勝田清孝は、2000年11月30日午前11時38分に旅立った。私たちは最後の時、護られていたと思う。主は罪とがに沈むわたしどものところへ来てくださり、迎えてくださった。そういう気がする。
こんな思いに耽るとき、きまって意識にのぼるのが、ドストエフスキーの以下のコンテクストである。
彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのときだれかぼくの魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉にたいして固い信念を抱きながら・・・。三日の後、彼は僧院を出た。『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。 【カラマーゾフの兄弟 米川正夫訳】より
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◇ 死刑とは何か~刑場の周縁から 新潮社刊『宣告』 中公新書『死刑囚の記録』 角川文庫『死刑執行人の苦悩』
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◇ 光市事件元少年 私のような者のために、ありがとうございます 『殺人者はいかに誕生したか』長谷川博一著
『殺人者はいかに誕生したか―「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く』臨床心理士・長谷川博一著 新潮社 2010年11月刊 (新潮文庫=平成27年4月1日発行)
第4章 私のような者のために、ありがとうございます
光市母子殺害事件 元少年
p133~
「悲劇を繰り返さないために」
私は、少年時代に凶悪事件を起こしたある被告人と初めての面会をするために、2008年4月の夕方、広島へと足を運びました。あらかじめ電報で簡単な自己紹介と面会の意図は伝えておきました。翌朝いちばんに拘置所の手続きを済ませ、そして対面した青年・・・・。その歓迎ぶりは、まるで私が来るのを待ち焦がれていたのかと錯覚させるほどのものでした。
姿勢を正し、あどけない笑みとともに発した最初の言葉----
「私のような者のためにわざわざ来てくださり、ありがとうございます」
明らかな自己卑下する性格傾向。しかしそれをおおい隠す凛々しさもあり、また、意図的にそれと対比させようとしているかのように、幼児の雰囲気も漂わせている。何も知らずに接した人は、きっと彼に好印象を抱くことでしょう。
p134~
私が忘れられないのは、読み取れない不思議な光を放つ瞳でした。それは純粋さの反映なのか、警戒なのか・・・。穏やかにも見えるが、怒りの潜伏にも感じられる・・・。あるいは全身全霊で人の心中をうかがおうとしているのか・・・。
それにしてもその穏やかさは、つい三日前に死刑判決が言い渡された被告人のものではありません。ちょうど最高裁から広島高裁へ差し戻された控訴審において、それまでの無期懲役から死刑へと判決が変わった(2008年4月22日)というタイミング。その27歳の青年は、9年前(1999年当時18歳1カ月)、山口県光市で本村洋さんの妻・弥生さんと、生後11カ月の娘さんを殺害した元少年でした。
私は、電報に打ったことをくり返しました。
「あなたは裁判で正しく理解されていない。理解されなくてはならないと思う」
彼は再び「ありがとうございます」と言い、ほほ笑みました。どうやらこの人なつっこさは、彼が知らないうちに身に備わったもののようです。そうなった背景には相当に根深い事情があるはずです。
「成育史に答えがある」
私の心理臨床家としてのカンは強くそう主張するのでした。
差し戻し審になって、元少年と21人の弁護団は供述を大きく変えました。
p133~
それまでは取り調べの結果を認めて反省も述べていましたが、一転して犯行事実の相当部分を否定し、動機を大きく覆したのです。
(中略)
彼の新しい主張は、現実的にはまったく受け入れられませんでした。裁判所も、被告人は「嘘」を言うようになったと考え、こうして少年事件であっても死刑を回避する理由がなくなったとの判断が下されました。
この青年が犯した事実に争う余地はありません。しかし、私はその残忍さとは相容れない「人物像」に迫らなくてはならないとの思いに駆られていたのです。どうして(p135~)この痛ましいできごとが生じたのか、法廷内での議論が不十分ならば、場外で追究するしかないのです。
「これから中立的立場で、あなたの身に起こった事実を調べたいと思っています」
私の申し出を彼は快諾しました。頻繁に通い、彼の本音の語りを通して明らかにしていこうと、決意を固めました。
それもつかの間、五~六分たったころでしょうか。立ち会いの拘置所職員に内線電話で連絡が入りました。被告人の彼に何やら耳打ちをし、そして職員が私に「面会の女性が来たので、入れてください」と言うのです。驚きました。
一般面会は1日1回と決められているので、私が1人で手続きをして面会すれば、だれも会えないはずなのに・・・。
思いも寄らぬ壁
面会中、私への確認なく突然に入りこんできた女性。彼女も、私の訪問を歓迎していました。そして3人で今後について軽い打ち合わせを行いました。(略)
p136~
あとから知ることになりますが、この女性は、弁護団の指示で動いていた。死刑廃止論を唱える地元の女性だったのでした。
被告人の依頼通り、私は広島の主任弁護士に会いました。
そして---
「長谷川先生には、弁護団の依頼として動いてもらえませんか?」
最初に出てきたこの言葉が今でも耳から離れません。それは、私が恐れていたことだからです。
検察官とも弁護人ともスタンスを異にした中立的な第三者による調査が、本件については(p138~)不可欠でした。それまでの弁護人の依頼でなされた2つの鑑定も、弁護人が立ち会いながら言葉をはさむという環境で実施されていました。この方法では、鑑定内容の信憑性が疑われても仕方がありません。2人の鑑定人のうちの1人は、私と懇意にしている人でした。(略)
「中立的な立場で調べなくては意味がありません」
私がそう言うと、主任弁護士の顔は険しくなり、
「では、彼との面会はお断りします」と・・・。
これはおかしな発想です。面会を受けるか否かの判断は、被告人に与えられた権利だからです。
私は「今後、独自に面会・調査させていただきます」と明言し、弁護士事務所をあとにしました。
間もなく司法の場から消えることになる元少年。彼の心の深みをこれから探索していく。その大仕事を前にして、彼を取り巻く人間関係に腑に落ちない点がますます膨らんでいくのでした。
初対面の私への歓迎。弁護人の指示への忠実さ。そこに彼の主体性はどれほど関与(p139~)しているのでしょう。主体性、いや迎合性が、彼という人間を解く上でのひとつの鍵になり、それは犯行の残酷さとも無縁ではない。そのような思考が頭を巡りました。
後日、本人に連絡をして再び広島に入りました。すると夜の十時半ごろ、ホテルにいる私の携帯に着信がありました。21人の弁護団の一人からです。
唐突に---
「明日の面会はしないでくださいよ。まさかもう広島ですか」
強い口調の声が響きました。
「はい、広島です」と答えると、彼は「主任弁護士から断っているはず」と言います。「ですから、弁護団の依頼でなく独自に調査しますと伝えました」と応じました。
押し問答の末、私は、「あなたに携帯の番号を教えてはいません。それに夜遅くに面識もない人から突然、電話をもらうなど・・・失礼では?」と言い、その場を終えました。
この面会は元少年にしか知らせていない。携帯の番号はあのときの女性にしか知らせていない。そのどちらも弁護士は知っていた・・・。どうやらこれは被告人との勝負ではないな、私はそう気づきました。(略)
pp140~
翌朝早く、拘置所の受付前に1番で並んでいると、先日の女性が遠くの電柱の陰から私を見つけ、誰かに電話をかけました。私が受付手続きを済ませると同時に、前夜の弁護士がやってきて、弁護士面会としてすぐに中に入ってしまいました(一般面会よりも弁護士面会が優先されます)。待っている間、女性が陰から私を見張り続け、時々電話をします。たぶん中の弁護士に「まだ待っている」と連絡を入れていたのでしょう。どうしても会わせたくないようです。結局この日は会えませんでした。
その翌日は面会妨害はありませんでした。その代わりに「本人が面会拒否です」と職員から申し訳なさそうに告げられました。監視役の女性もいないことから、被告人本人への説得がうまくいったのでしょう。(略)
p141~
自分の意思が見つからない
被告人に毎週のように手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。彼は手紙を嫌がっているのか、そうではないのか・・・。返事を書きたくないのか、そうではないのか・・・。面会の様子と、彼を取り巻く人間たちとの関係を考えると、強く制止されているのでは、との結論が導き出されます。私の手紙の内容は、彼が主体的に事件に向き合えるようエンパワメントするものになっていきました。
「自分の気持、考えで判断し、拘置所どうすればいい」
「あなたには、その力がある」
一方通行の手紙が十通目を超えた頃、突然彼から電報が届きました。
「○○です お手紙頂いています 大変にありがたいです
礼をしないのは本意ではないのでひとまずすみません」
(略)
p142~
ここに初めて、2年以上前の電報を公表しました。それを抑えていたのは、弁護団に知られると、おそらく彼は強く叱責され、コントロールはさらに強まり、自分の意思で語るという目標から遠ざかってしまうと考えたからです。27歳になっても、彼は他人の期待に合わせることを行動原理の基本に据え、自分の意思は無きものとして抑え込んでいるのです。もしかすると18歳の犯行時、彼が長年封印してきた本物の負の感情が爆発的に表出されたのかもしれません。
弁護団の1人が打ち明けてくれました(これも初めての公表です)。
「裁判でのストーリー(新供述)は、本人と弁護団で話し合って作った部分がある」
彼一人では、心理世界としてあれほど一貫したストーリーは作り出せない。それでも断片的には彼の心が語られてはいる。そのような私の見立ては真実執行を帯びたものとなっていきました。
彼が私の面会に歓迎を示したのも、私の期待に沿ったためでしょう。そして、電話に書かれた「礼をしないのは本意ではない・・・」という意思も、こまめに手紙を書く私に対する配慮だった可能性を否定はできません。彼には自分の「真意」を感じ取ることすらできないのかもしれません。
p143~
犯行後、家庭裁判所で作られた社会記録があります。知能指数は106と中程度であるにもかかわらず、TATという心理検査(絵画を見て物語を作らせるもの)の結果を「発達レベルは4、5歳と評価できる」と記しているのです。知能検査では実年齢に近い19歳相当なのに、物語の創作では幼児という、精神発達のバランスの大きな崩れを持っていたのです。
これまでの彼の残した発言や記述には、まるで別人のものではないかと思わせるような「大人性」と「幼児性」が混在しています。精神機能のある面は発達し、他は幼児の状態のままなのかもしれません。私への電報は理知的な大人の文言です。新供述の「復活の儀式」や「ドラえもん」は幼児に特有の魔術的思考そのものです。そらに、これらとは次元を異にする迎合性が顕著です。
彼のこの複雑な性格を理解しない限り、「かりそめの真意」は接する人の数だけ生まれるでしょう。そして各人がそれを「本物の真意」と信じ込んでしまうでしょう。少しでも誘導的なやりとりがあれば(言外の意程度であっても)、犯行ストーリーは変遷していくでしょう。残念ながら、誰にも犯行動機をとらえることはできないということです。
p144~
精神発達の著しい遅れと強い迎合性。それを彼は、どのようにして身につけたのか。幼少期の生育環境と無縁でないことは、言うまでもありません。(略)
歪む世界で育つこと
p145~
(略)
さて、光市事件の元少年は、どのような過去を背負っていたのでしょうか。弁護団の犯行ストーリーは保留しておくとして、家裁の調査などで明らかになっている成育史を整理することにします。
p146~
物心つく頃から、会社員である父親は母親に激しい暴力をふるっていました。彼は自然と弱い側、つまり母親をかばうようになり、そのため彼にも暴力の矛先が向けられました。小学校に上がると、理由なく殴られるようになりました。海でボートに乗っているとき、父親にわざと転覆させられ、這い上がろうとする彼はさらに突き落されるということが起きます。3、4年生のときには、風呂場で足を持って逆さ吊りにされ、浴槽に上半身を入れられ、溺れそうになったことが何度かあります。
常に父親の暴力に怯えていた母と息子。彼は父親の圧倒的な力に屈し、反抗心を潜伏させなくてはなりませんでした。児童虐待に後遺症が深刻なのは、幼少期から慢性ストレスにさらされ、脳の働きに異変が生じていることに関係しています。通常は、現実的判断機能が低下する傾向が進み、さらには苦痛を免れるために空想世界への逃避も生じさせます。
この母子は運命共同体であり、その心身の距離を急速に近づけていきました。(略)
p146~
「将来、一緒に結婚して暮らそう」
「お前に似た子どもができるといいね」
(略)
小学校高学年頃から母親のうつ症状は悪化し、薬と酒の量が増え、自殺未遂を繰り返します。彼が自殺を止めたこともあり、彼にとって母親は「守られたい」けど「守りたい」存在でもあったのです。このように錯綜する相容れない感情をいだく対象が母親であり、ひどく歪んだ共生関係に陥っていました。
中学1年(1993年)の9月22日、母親は自宅ガレージで首を吊って自殺しました。母親の遺体と、その横で黙って立っている父親の姿を彼は覚えています。(以下略)
p140
【附記】被告人の実名本が出版される等、氏名は明らかになっていますが、犯行時18歳30日の少年だったことを考慮し、本稿では匿名としました。
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