2017年4月16日 復活の主日 〈来栖の独白〉ああ、私にも春がきた

2017-04-16 | 日録

〈来栖の独白2017.4.15 Sat 〉
 本日も、公園を歩き、桜を眺めれば、つい「ああ、私にも春がきた」と口に出る。身を固くする冬ではなく、身も心も軽く、楽になった春。
 昨夏の或る出来事から私には時の経つのが恐ろしく、凡そ穏やかな春の訪れなど期待できなかった。
 しかし、主は誰をも傷つけぬやり方で、すべてが救われるやり方で、解決してくださった。まったく信じられないような展開だった。くよくよ先案じし、心を暗くした私だったが、主の思惑は、そんなところにはなかった。まるで桜の花の見事ささながら・・・。クリスチャンのよく口にする「神に感謝」。そんな短い言葉では言い表せないが、やはり繰り返さずにはいられない。「神に感謝」「主よ、感謝します」。
 このところ、『名画と読むイエス・キリストの物語』 (中野京子 著)を読んでいる。聖書の中、とりわけ新約聖書の中で、私は奇蹟物語が信用(!)できなかったのだが、中野京子さんの解説は実に素直に首肯できる。また、中野さんの説くイエスの胸中、とりわけ、来たるべき受難を受け入れてゆく心の変容には、甲を脱いだ。そして、胸を締め付けられる。いずれ、書き写してみたいと思う。

   

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2017年4月16日 復活の主日(白)
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る (サムエル上16・9より)

   
     空の墓 フラ・アンジェリコ画 フィレツンツェ サン・マルコ美術館 15世紀
『聖書と典礼』表紙絵解説(『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに……」(ヨハネ20・1)という印象的な書き出しとともに、この復活の主日・日中のミサ共通の福音朗読箇所となっているヨハネ福音書は、マクダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見たと述べる。彼女は、シモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行く。こうして、復活のあかしが広まっていく。
  週の初めの日、朝早くに、墓を訪ねた女性に言及するのは四福音書とも共通だが、女性たちの数やそこに現れる天使の数も違う。マタイ福音書では、「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使から近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」(マタイ28・1-2)とある。マルコ福音書では、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(マルコ16・1)の名が言及され、現れるのは「白い長い衣を着た若者」(16・5)である。ルカ福音書では、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(ルカ23・55)が墓に行ったように述べられ、あとで「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(ルカ24・10)とも述べられている。また、ルカでは現れるのが「輝く衣を来た二人の人」(24・4)である。そして、ヨハネ福音書では、上述のようにマグダラのマリアのみ。このマグダラのマリアについては、ヨハネ20章11-18節で、彼女が泣きながら墓の中を見ると「白い衣を着た二人の天使が見えた」(ヨハネ20・12)とある。マグダラのマリアだけがどの箇所にも共通に登場していることはまず注目すべきことである。
  さて、フラ・アンジェリコ作によるこの表紙絵は、上述の四つの福音書の叙述を踏まえて構成されている。墓は大理石の棺のように描かれ、蓋がないところに墓から石が取りのけてあったという叙述との対応が見られる。その中を覗き込んでいる女性はマグダラのマリアと考えてよいだろう。ほかにも女性が多く描かれているところはルカ福音書の反映と思われる。天使の描き方はマタイに基づいていよう。
  空の墓を訪ねる女性たちに天使が現れている光景を描くだけで、キリスト教初期の美術は、イエスの復活の図として描いてきていた。中世になると、勝利の旗印を掲げる、復活したイエス自身を描き、墓(棺)から立ち上がる姿を描く型も登場する。この絵の場合は、その両方の流れが合わさっている。復活したイエスが直接、墓(棺)から出てくるところを描くものではないが、天使の告げを受けたマグダラのマリアの上に、いわば超越的存在として復活したイエスが描かれるという工夫である。
  復活したイエスは、栄光の光背を背に、衣も白い。すべてが永遠のいのちの輝きに包まれている。右手に持っている緑の葉は、エルサレム入城の際のしゅろの葉、すなわち、受難に赴く主を歓呼をもって迎えるときの葉を連想させる。緑色の鮮やかさは、まさしく、これが永遠のいのちの始まり、すべての人の復活の始まりを告げるものであることを印象づける。この緑と対照的なのは、イエスの頭の光輪の十字の赤、そして左に携える杖の先の旗に描かれる十字の赤である。このイエスの持ち物の中に、すでに、受難死から復活へという過越の神秘が集約されている。ただし、この移行は同じ平面の上のものではなく、死者が地上において蘇生されたのとは違う。マグダラのマリアの視線が墓の底の真下に向かっているのに対して、空中にぽっかりと復活のイエスが現れているような描き方は、死と復活の次元の違いをも表現していよう。地上の色彩世界に対し、天使やイエスの姿の「白」さは、神から来るあり方を示しているかのようである。
  ちなみに、この絵の中の「白」も「赤」も「緑」も現在の典礼暦年の彩りを示す典礼色として活かされている。マクダラのマリアのすぐ後ろにいる女性の衣の「紫」も含めれば、基本の四色がすべて揃う。これら女性たち一人ひとりの表情に見える、イエスの死と復活の神秘を前にしたいわば“心模様”も興味が尽きない。

 ◎上記事は[Oriens]からの転載・引用です  
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使徒言行録10、37-43
37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。
39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。
40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、
41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。

コロサイ3・1-4
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

ヨハネ13・1-15
1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

哀歌 2.10-22
10 シオンの娘の長老たちは地に座して黙し、頭にちりをかぶり、身に荒布をまとった。エルサレムのおとめたちはこうべを地にたれた。
11 わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに/息も絶えようとしているからである。
12 彼らが、傷ついた者のように町のちまたで/息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。
13 エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。
14 あなたの預言者たちはあなたのために/人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして/捕われを免れさせようとはせず、あなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た。
15 すべて道行く人は、あなたにむかって手を打ち、エルサレムの娘にむかって、あざ笑い、かつ頭を振って言う、「麗しさのきわみ、全地の喜びと/となえられた町はこれなのか」と。
16 あなたのもろもろの敵は、あなたをののしり、あざ笑い、歯がみして言う、「われわれはこれを滅ぼした、ああ、これはわれわれが望んだ日だ、今われわれはこれにあい、これを見た」と。
17 主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた。
18 シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな。
19 夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。
20 主よ、みそなわして、顧みてください。あなたはだれにむかって/このように行われたのですか。女は自分の産んだ子、その大事に育てた幼な子を食べるでしょうか。祭司と預言者が主の聖所で殺されていいでしょうか。
21 老いも若きも、ちまたのちりに伏し、わがおとめも、若人も、つるぎで倒されてしまった。あなたは、その怒りの日にこれを殺し、これをほふって、あわれむことをされなかった。
22 あなたは、わたしの恐れるものを、祭の日のように四方から呼び集められた。主の怒りの日には、のがれた者も残った者もなかった。わたしが、いだき育てた者を/わたしの敵は滅ぼし尽した。  
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