「効率と無駄のはざま」 木全純治 2022.10.16.

2022-10-16 | 文化 思索 社会

 中 日 新 聞 を読んで 効率と無駄のはざま
 2022.10.16 Sun. 木全純治

  9月25日付朝刊社説「速すぎて見えないもの」は、最近の映像視聴習慣にメスを入れた論評として興味深い。その中に「ファスト映画」と「倍速視聴」との用語が登場する。ファスト映画とは、一本の映画を十数分に編集した動画のこと。これを無断で動画投稿サイトにアップした男女3人が宮城県警に逮捕された。約2100本のファスト映画が、約4億7千7百万回再生されていたというから、その需要は見逃せない。倍速視聴とは、映画やアニメを1,5倍速で、退屈なシーンを十秒スキップしながら見ることを指す。映画は、等倍速で見ることが当たり前と思っていた私にとって、容易ならぬ事態が起こっているようだ。前から気になっていた新書、稲田豊史著「映画を早送りで観る人たち」(光文社新書)を手に取った。
 この2,3年映像視聴習慣を変えたのは、ネットフリックス、アマゾンプライム・ビデオなどの定額動画視聴サービスの普及であろう。膨大な量の作品を、極めて安価で瞬時に視聴できる。「愛の不時着」「イカゲーム」などの韓国ドラマをこんなに身近に鑑賞できるとは驚異的。だがあまりの量の多さに、Z世代(生まれたときからデジタルが身近な十代後半~二十代半ばの若者)を中心に、作品を「鑑賞」するより「消費」する傾向が顕著になってきている。その背景には「この三十年間で、大学生が親からもらえる生活費は四分の一以下にまで減った」「彼らはともかく余裕がない。時間的にも、金銭的にも。そして何より精神的に」という稲田氏の指摘がある。
 九月末に、これまで度々利用していた「TSUTAYA名古屋駅西店」が閉店した。時代はレンタルから配信の時代に移行し、その流れはさらに加速する。社説の中の「神は細部に宿る」や、無駄の積み重ねの中に新たなものが生まれる、という警句は核心を突いている。だが無駄なモノを極力排除したい若者たちにどこまで届くであろう。その点、映画館は、非日常的空間で等倍速のみで進行する貴重な場所である。
 (シネマスコーレ支配人)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)


中日新聞
<社説>週のはじめに考える 速すぎて見えないもの
2022年9月25日

 この「新語」を最初に目にした時は、ナチスか何かが制作に関わった作品のことかと思ったのですが、よく見たら、ファシスト映画ではなく、「ファスト映画」でした。映画を、例えば十分ほどに短く編集した動画を指すようです。
 本紙の記事データベースで調べてみると、この語が初登場したのは昨年六月。著作権者に無断でファスト映画を作成し、動画投稿サイトにアップしていた男女三人を宮城県警が逮捕したという記事でした。ファスト映画にからむ初の逮捕事案だったようです。
◆ファスト映画と倍速視聴
 その記事によれば、著作権者らでつくる団体が「ユーチューブ」を調べたところ、その時点まで一年の間に、少なくとも五十五アカウントから投稿された約二千百本のファスト映画が確認され、総再生数は約四億七千七百万回に上っていたといいます。ちなみに、その後、この三人は、映画会社など十三社から実に五億円の損害賠償請求訴訟も起こされています。
 同様に、「倍速(早送り)視聴(再生)」といった言葉も最近、よく見かけます。やはり記事データベースで検索すると、今年に入ってから何本かの記事で使われています。定額動画視聴サービスなどで、映画やアニメを一・五倍速で見る、退屈なシーンは十秒スキップしながら見る、といった視聴スタイルを指すようです。
 無論、前者と違い権利侵害でも犯罪でもありませんが、作品を、制作側が意図した本来の形でなく短時間で見る、という点は同じ。今年出た『映画を早送りで観(み)る人たち』の著者稲田豊史さんが本紙に書いているところによれば、ある大学で調査したら、学生の三人に二人がふだんから「倍速視聴」を行っていたといいます。
◆振り落とされる「細部」
 蓋(けだ)し、違法な動画は別として、映画などの作品をどう見ようが、個々人の自由といえば自由です。忙しくて時間がないが、話題についていけないのは困るから、手早く見たい−といった事情も分からないではありません。しかし、二時間の作品を早送りや十分バージョンで見て面白いのでしょうか。だいたい、普通に鑑賞したら、もしかすると生涯の一本、いや、人生を変える映画との出会いになったかもしれないのです。
 ぎりぎりストーリーを追えて、その作品のエッセンスさえつかめればOKと考えているのかもしれませんが、大建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉ともされる有名な箴言(しんげん)を思い出してみましょう。そう、<神は細部に宿る>。
 あらすじは理解できても、さりげない伏線、シーンに漂う微妙な空気、目線だけの一瞬の演技−といった<細部>は、異常な再生速度に振り落とされ、ファストの大鉈(おおなた)で切り落とされてしまうでしょう。でも、そうした、速すぎては見えないものの中にこそ「映画」は存在すると思います。
 これは動画視聴の話にとどまらない気もしています。およそ、物事はエッセンスと余分、即(すなわ)ち、無駄で退屈な細部とで成り立っていて、エッセンスを手早く獲得する「ファスト」こそが効率的−。あらすじさえ分かればよいという感覚が、そんな考え方につながっていくとすれば少々心配です。
◆「無駄走り」と幸運
 セレンディピティという言葉があります。不意に訪れる幸運なひらめき、といった意味ですが、多分、科学技術の発展は、多くの才能が多くのセレンディピティに恵まれ、成し遂げられてきたといって構わないでしょう。では、どんな人に、その幸運なひらめきは訪れるのか。ここは、偉大な細菌学者パスツールの言葉だと伝わる警句を引くとします。曰(いわ)く、<幸運は用意された心のみに宿る>。
 <用意された心>とは、常にその道を究めようと努め、愚直な研鑽(けんさん)を怠らない精神、と言い換えてよいでしょう。サッカーでは、ボールを持っていない選手が展開を予測しながら動き回ることを「無駄走り」と呼びますが、それに通じないでしょうか。もしやパスが来るかも、に賭けて空振りも承知で動きだす。そんな「無駄走り」を倦(う)まず繰り返していればこそ、神がかったプレーは生まれ得る。ただ突っ立っている者に、幸運のボールは回ってこないのです。
 思えば、さまざまなイノベーションを実現し、わが国が「科学技術立国」を標榜(ひょうぼう)できた時代も今は昔。日本は、ウォークマンは創ったが、iPodもユーチューブも生み出せなかった。政府は今、次代の産業を担うスタートアップ育成に血眼になっています。でも、もしも、「細部」を余分としか見ず、「無駄走り」を無駄と見るような、いわば「ファスト」に傾く空気が社会に広がるなら、期待の実現は覚束(おぼつか)ない気もします。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です


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