《岩田明子氏が初めて聞いたエピソード》安倍晋三が凶弾に倒れた際、妻・昭恵の脳裏に真っ先に浮かんだ言葉とは
2023/2/14(火) 11:12配信
ジャーナリスト・岩田明子氏による人気連載「安倍晋三秘録 第6回 金正日・正恩との対決」(「文藝春秋」2023年3月号)の一部を転載します。
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「覚悟しておいてほしい」
今から約20年前の2002年9月17日。日が昇り切らず、薄暗さが残る朝5時だというのに、富ヶ谷の安倍晋三邸の前には大勢の記者が詰めかけていた。私もそのうちの一人だった。NHKの政治部記者として安倍番になって、2か月しか経っていない頃だ。
この日、小泉純一郎総理が北朝鮮を訪問し、最高指導者である金正日との首脳会談に臨む、「電撃訪朝」が予定されていた。官房副長官として同行する安倍の出発を、記者たちは今か今かと待ち受けていたのだ。
しばらくして、玄関口に現れた安倍は記者たちを一瞥すると、送迎車に乗り込んだ。その時の凍てつくような厳しい表情は今も忘れない。
「北朝鮮で殺されるかもしれない。政治家の妻として、覚悟しておいてほしい」
実はこの日の出発前に、安倍は妻の昭恵にそう打ち明けている。今回の取材で、初めて耳にしたエピソードだ。過去20年取材した中でも、これほど重い言葉を聞いたことはなかった。
それまでにも北朝鮮は、外国人の拉致だけでなく、115人もの死者を出した大韓航空機爆破事件など、指導者の命令によって数々の凶悪犯罪に手を染めてきた。そうした国家と対峙するにあたって、安倍は命を懸ける覚悟だったのだろう。昨年7月に安倍が凶弾に倒れた際、昭恵の脳裏に真っ先に浮かんだのが、この「殺されるかもしれない」という言葉だという。
「もう一度総理になってください」
2020年8月28日、安倍が第二次政権の退陣を表明。その際の会見では「拉致問題をこの手で解決できなかったことは、痛恨の極みであります。ロシアとの平和条約、また、憲法改正、志半ばで職を去ることは、断腸の思いであります」と語っている。拉致問題は、安倍が悲願に掲げた憲法改正や平和安全法制の整備、日露交渉と並んで、政治家としての最重要課題だった。
拉致被害者の家族も安倍に多大なる期待を託していた。1983年に留学中のロンドンで拉致された有本恵子さんの父親は、退陣表明後に安倍の事務所を訪ねている。
「日本のために是非、もう一度総理になってください……」
有本さんの父は、隣室にも届くほどの声で懇願したという。忸怩たる思いだった安倍は言葉に詰まりながら「天が必要としたときには、また頑張りますから」と言う他なかった。
拉致問題がマスコミに取り上げられる前から、安倍は熱心に取り組んできた。父晋太郎の秘書時代に有本さんの両親が安倍事務所を訪ね、「娘を取り戻してほしい」と依頼したことがきっかけだ。だが、事務所として警察庁や外務省を紹介するなどの対応を取ったが、進展は見られなかった。この時の無念さが安倍の胸には燻り続けた。以来、安倍は北朝鮮に毅然たる姿勢を取り続ける。一方で安倍が政治家として注目を浴びたきっかけも拉致問題だった。
大きな進展を見せたのは冒頭に触れた第一回の小泉訪朝だ。当時、外務省の田中均アジア大洋州局長が「ミスターX」と極秘裏の交渉を重ね、その末に訪朝を実現。内情を知るのは、官邸では小泉、福田康夫官房長官、古川貞二郎官房副長官などごく少数に限られ、安倍は小泉が記者発表をする8月31日直前まで知らされていなかった。おそらく拉致被害者家族会と距離が近かったため、情報が洩れることを懸念したのかもしれない。
それでも安倍の強硬姿勢は一貫していた。平壌の百花園招待所で開かれた日朝首脳会談。金正日が拉致を認めようとしないのに対して、交渉の限界を感じた安倍が、昼休みに控室で「拉致を認めない限りは、日朝共同宣言に署名すべきではない」と小泉らに訴えたのは有名な話だ。北朝鮮側に盗聴されていることも承知の上だったという。また、同年10月15日に蓮池さん夫妻や地村さん夫妻、曽我ひとみさんが帰国。田中均などは5人を再び北朝鮮に帰すべきとの主張をしていたが、ここでも安倍は断固反対の姿勢を崩さなかった。
この頃、安倍は事情を聞くために、帰国間もない5人が住む新潟、福井に度々足を運んでいる。私も何度も同行した。北朝鮮に家族を残してきた蓮池さんらは「北に帰りたい」と表向きは口にするが、安倍は本心ではないと見抜いていた。そのため、あくまでも日本政府の意志として帰国させない方針を決定したのだ。北朝鮮での悲惨な暮らしぶりをすべて聞き取ったうえでの判断だった。後に蓮池薫さんは安倍にこんな趣旨のことを語っている。
「日本に帰国が決まった際に北朝鮮の幹部から『北朝鮮に戻りたいのか? それとも日本に永住したいのか?』と聞かれました。しかし、その幹部は『空調の音がうるさい。止めろ』と指示したんです。すぐに自分が盗聴されていると感じました。日本に帰国後も、北朝鮮の工作員と思しき特徴ある人物が、突然、私の前に姿を現すんです。それは“監視している”というサイン。自由に喋ることなんてできません」
滋さんは気持ちを押し殺して
第一回日朝首脳会談の際に、北朝鮮側から拉致被害者は「八人死亡、五人生存」との報告があり、横田めぐみさんも死亡者に含まれていた。当時、めぐみさんの父滋さんは会見で涙をこらえながら「死亡を必ずしも信じることができない」と語り、母早紀江さんも「まだ生きていることを信じて戦い続ける」と悲痛の想いを明かしている。安倍には、当時の忘れられない光景があった。
「拉致被害者5人が帰国して、私たちが出迎えたとき、滋さんは拉致被害者やその家族の様子を写真に収めるべく、ひたすらカメラのシャッターを切っていた。自分の娘は死んだと北朝鮮から突き付けられ、辛いだろうに、その気持ちを押し殺して……。私も胸に想いが込み上げて、涙が出てきたよ」
日朝首脳会談を機に北朝鮮は拉致被害者の調査を行っており、8人の死亡の経緯をまとめ、日本側に報告書を渡している。そこではめぐみさんについて「93年に鬱病を発症し、入院した平壌の病院で自殺に及んだ」と記されていた。
だが、02年当時からこのような北朝鮮の説明にはあまりに不審な点が多く、「めぐみさん自殺」の情報も根拠に乏しいものだった。日本政府としては、北朝鮮に再調査を求める必要があった。
2004年の5月22日に小泉は再び訪朝し、第二回日朝首脳会談に臨んでいる。幹事長の立場にあった安倍は同行していない。ただ、その頃の安倍は「今の時点で総理が訪朝するのは賛成しがたい。行方不明者の中には必ず生存者がいるのに、会談をすれば、北朝鮮が幕引きを図ることになる」と話していた。小泉の訪朝が目前に迫る5月10日に、私が安倍と面会した際にも、こんな考えを明かしていた。
「決して『めぐみさんが死んだ』と言われないようにしなければならない。それに(北朝鮮が死亡したと主張する)8人全員の帰国と、残りの行方不明者の安否の確認も徹底的に求めるべきで、この姿勢を断固として崩してはならない」
あくまでも生存者全員の帰国を前提に交渉を粘り強く続ける、これが安倍の終生変わらぬ拉致問題へのスタンスだったと言える。
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ジャーナリスト・岩田明子氏による「 安倍晋三秘録 第6回 金正日・正恩との対決 」の全文は、月刊「文藝春秋」2023年3月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
岩田 明子/文藝春秋 2023年3月号
最終更新:文春オンライン
◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2023.02.14 Tue.〉
残念でならない。安倍さんを失ったことで、「憲法改正」の希望も潰えた。日本は平和でいられるだろうか。希望が失われた。