戦後を終わらせる苦心の作、70年談話 終戦記念の談話はもうこれで最後に 筆坂秀世

2015-08-18 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

戦後を終わらせる苦心の作、70年談話  終戦記念の談話はもうこれで最後に
 JBpress 2015.8.18(火)筆坂秀世
 8月14日、内外の注目を集める中、安倍首相が戦後70年談話を発表した。言うまでもないことだが、10年ごとに談話を出す必要はさらさらない。村山50年談話、小泉60年談話をただ踏襲するだけなら、なおさらそうである。安倍首相は、この2つの談話とは違うものを出したいからこそ有識者懇談会「21世紀構想懇談会」まで設置して、談話の構想を検討してきた。単純に引き継ぐのなら、こんなたいそうな仕掛けは必要ない。
 一部では、まるでバイブルのように村山談話が扱われているが、そもそも村山談話はそれほど立派なものなのか。
 例えば、同談話には「遠くない過去の一時期、国策を誤り」とあるが、当時村山首相は、「どの内閣のどの政策が誤った」という認識かを問われ、「どの時期とかというようなことを断定的に申し上げることは適当ではない」と答えている。これでは日本のどのような行為について謝罪したのかさえ不明だということになる。こういう曖昧さを持っていたのが、村山談話なのである。
 村山元首相は、安倍談話について「(村山談話が)引き継がれたという印象はない」と語っているが、当然のことである。もともと引き継がないために構想したものだからである。その意味では、「引き継がれたという印象はない」と当事者が語っているのだから、それだけでも安倍首相の作戦は功を奏したということだ。
*ひたすら「お詫び」を続ける道からの脱却
 では何を引き継がなかったのか。それは、ひたすら「お詫び」をし続けるという立場であったと思う。安倍首相は談話で、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争に関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。まったくその通りである。
 村山談話、小泉談話で日本の首相が「お詫び」を述べた。だからといって中国や韓国との関係が改善されただろうか。いくら「お詫び」を表明したところで、それによって日中関係や日韓関係が改善される保証は、どこにもない。それどころか「お詫び」をすればするほど、図に乗って無理難題を要求してくることも少なくないのが、この両国との関係である。
 村山元首相らのように、未来永劫謝り続けろという立場からの脱却こそ、安倍談話の核心の1つなのである。
*村山談話を「踏襲」したのは表現だけ
 安倍談話は、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」「こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります」と述べている。
 この表現について、安倍談話に批判的な朝日新聞は、「同じ単語が盛り込まれたとはいえ、村山・小泉談話と安倍談話には大きな違いがある。談話を語る『主語』だ」「村山富市首相(当時)は、談話の末尾を『私の誓いといたします』と結び、小泉純一郎首相(当時)は『私は、終戦60年を迎えるに当たり』と談話を書き出した」が、安倍談話には「私は」という主語がないと批判している。
 また、共産党の志位委員長は「反省とおわびについて、歴代政権が表明したという事実について言及しただけで、自らの言葉で述べていない。大変欺瞞に満ちたものだ」などと批判している。
 批判の内容は別にして、事実関係は朝日新聞や志位氏が指摘するとおりである。安倍首相は、自分の言葉では、語りたくなかったからである。そこには、中国への「侵略」について、記者会見で「具体的にどのような行為が侵略にあたるか否かについては、歴史家の議論に委ねるべきだと考える」と述べたように、安倍首相の歴史観が強くにじみ出ている。いつまで謝り続けるのか、という強い思いもあるはずだ。
 安倍談話が、「踏襲する」というのは表現だけであって、その精神は踏襲しないということでもあるのだ。したがって、安倍首相にとって、「村山談話を踏襲していないではないか」という批判は、痛くもかゆくもないのである。
*ポツダム体制に対して婉曲に異論
 安倍首相自身は歴史家の議論をまたずとも「中国への侵略」ということについて、おそらく否定的見解を持っているはずである。また戦前の日本の体制についても、すべてを否定する立場ではないはずだ。
 だが日本は、ポツダム宣言を受諾しているのである。ポツダム宣言には、「日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服に出ずるの過誤を犯した勢力を永久に取り除く」などとある。おそらく安倍首相は、日本が世界征服を目指していたなどという決めつけに異論を持っているはずだ。広島、長崎への原爆投下も非難したかったはずである。
 だが日本はこの宣言を受諾している。しかも宣言を発した主体はアメリカである。ポツダム宣言の内容に異論を唱えることは、アメリカに異論を唱え、逆らうことになる。
 このポツダム体制こそが、安倍首相が言う戦後レジームなのだが、この体制に正面から異論を唱えることは、対米従属国家である日本の首相にできるわけがない。これをもっと婉曲な形で実現しようとしたのが、今回の70年談話ではないのだろうか。
 その意味では、安倍談話は非常に工夫されたものであり、苦心の作であると言えよう。
*簡潔、適切に叙述した日本の近代史と世界情勢
 談話は、「終戦70周年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を、私たちは心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならない」という文言から始まっている。
 単に戦後70年というスパンではなく、明治維新を通じて日本が近代化を進めて独立を守り、立憲政治を打ち立てたことや日露戦争にも言及し、第2次世界大戦にいたる世界の情勢にも言及している。これは村山・小泉談話にはなかったものである。
 また日本が戦争の道を突き進むことになった背景に、欧米列強の植民地支配と経済のブロック化があったことにも言及し、その過程の中で日本が「進むべき進路を誤」ったとしている。簡潔だが、日本の近代史と世界情勢が適切に叙述されている。
 こうした叙述は、非常に重要である。日本による侵略や植民地支配を肯定する必要はないが、なぜ日本がそういう道を歩んでしまったのか、実は学校教育などでも十分に学ぶ機会が与えられていないからだ。こういう歴史を知らずして、歴史の教訓に学ぶことなどできない。その意味でも、大変重要な問題提起がなされているのである。
 さらに安倍談話は、中国、韓国に向けてだけではなく、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなどにも言及し、感謝の身持ちを表明している。これも村山・小泉談話にはなかった視野である。
*次に出すときはもっと未来を語るものを
 おそらく批判も多々あるであろうことが想定できるにもかかわらず、安倍首相は、なぜこのような談話を出したのか。その最大の狙いは、この談話によって、エンドレスに続く中国や韓国からの謝罪要求に終止符を打つことだったのではないだろうか。そうであるなら大賛成である。
 戦争の悲惨さを語り継ぐことは大切なことである。不戦の決意は、どれほど強くても良い。だが、それは日本という国の歴史や日本民族を貶めることではない。
 もちろん肯定すべき歴史も非難されるべき歴史もあるであろう。だがその両方を含めて、最終的に誇りが持てるようにしてこそ、未来に生きるのである。もう終戦記念の談話は、安倍談話を最後にしてもらいたい。次に出すときは、もっと未来を語るものであってほしいと願う。
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