諸永裕司著『ふたつの嘘 沖縄密約』
p140~
密約を認めない国に謝罪と損害賠償を求めた裁判では、夫を門前払いした1審の判断が覆ることはなかった。08年9月2日、最高裁は上告を棄却し、敗訴が確定する。やはり国家の壁は厚かった。途方もなく厚かった。
p141~
しかし、その決定が下されたのは、夫が最後となる戦いを仕掛けた日でもあった。
午後2時すぎ、西山を含むジャーナリストや研究者ら計63人が、密約に合意した文書の開示を求めて情報公開を請求した。
00年に見つかった米公開文書は、沖縄返還に際して、軍用地の原状回復補償費4百万㌦を日本側が肩代わりすることを裏付けるものだ。日米両政府の交渉責任者の署名もある。2国間交渉である以上、当然、同一の文書を日本側も保管していなければならない。
それは、日本政府が隠し、否定し続けてきた密約の証しともいえる。
〈略〉
作家の澤地久枝だった。〈略〉
かつて、澤地は刑事裁判に通いつめたものの、情報を漏らした外務省の女性事務次官から話を聞くことができなかったため、公平を期す意味で、あえて西山には接触しなかった。そのかわり、法廷での審理を傍聴席の最前列から見守り続けて『密約』を書き上げたのだった。
p142~
そのため、ふたりはたがいによく知る存在とはいえ、言葉を交わしたことはなかった。
当時、世論の猛烈な逆風下にあった西山にとっては、自身がまさに問おうとした密約の本質に光を当てた作品は救いにも思えた。
ただ、澤地は、全面的に西山の肩をもとうとしたわけではなかった。情報源を守りきれなかったことから助成事務官を一切批判しないという法廷戦略を貫いたことは潔いと評価しながらも、それが逆に真実を遠ざける結果を招いたのではないか、と鋭く分析してもいた。
p143~
澤地はまっすぐに前を向いたまま、張りのある声で事件とのかかわりを説明する。
事件が起きた1972年、澤地は長く籍を置いていた「婦人公論」編集部から離れ、フリーランスとして独立して間もなかった。(略)国会図書館に通い、「旧満州時代」の資料を読んでいたとき、たまたま読んだ新聞記事に触発されて、この事件に目を向けるようになったという。
国が、国民に嘘をついた。---
本来、問われるべき問題を置き去りにしたまま、男女スキャンダルにわくメディアや世論への違和感が拭えず、法廷に通いはじめた。
澤地を突き動かしていたのは怒りだった。
政治的な思惑から、密約を結んだという嘘を隠し、その「証拠」をつかんだ記者の取材手法をあげつらって、みずからの責任を逃れようとする政府。
検察が起訴状に盛り込んだ「情を通じ」という言葉で本質をすりかえられたまま、いつしか密約の追及から手を引いたメディア。
p144~
密約の有無には踏み込まず、検察側の立証をなぞるかのように記者の取材手法だけを問うた裁判所。
そして、澤地が怒りよりも失望を味わわされたのは、国の嘘をそのまま赦した主権者、つまりは「まんまとしてやられた市民」だった。
00年と02年に発見された米公文書に続き、06年には交渉責任者だった元外務省アメリカ局長が「密約はあった」と証言した。にもかかわらず、政府は認めない。つまり、国民に嘘をついてアメリカとひそかに結んだ約束について、いまなお「密約はない」と繰り返し、二重に嘘をついている。
「こんな嘘さえ認められないとは、これで民主主義の国といえるのでしょうか。まるで江戸時代に戻ったかのようです」
それから、日本全国の約75%が集中する沖縄のいまに触れた。
原点は、72年の沖縄返還にある---
澤地のよどみない弁舌を聞きながら、西山は潤んだ目元をしきりにしばたたかせた。そして、胸にこみあげるものをなだめながら耳を傾けた。
「こんなにも、この問題が解決されないとは、無力感を感じます」
その一言に、西山は再び、心をわしずかみにされた。
p207~
情報公開を求めた63人のうち、だれが原告になるか。
「不開示」の決定から約1か月後の11月7日、請求人共同代表のひとりだったジャーナリストの筑紫哲也が肺がんで亡くなった。
「象を見ないで、蟻を見ている」
この事件をめぐる報道について、そう批判していた。政府が密約を結んだという本質をつかまえようとせず、取材手法など些細なことばかりをあげつらっている、との指摘だった。
02年に毎日新聞労組が開いたシンポジウムでは、西山とともにパネリストとしてマイクを握り、次のように語っている。
「同じ時代に生きた1人のジャーナリストとして、ジャーナリズムが西山さんという人をきちんと守りきれなかったという結果については恥ずかしいと思っております」
朝日新聞のワシントン特派員として、米ニクソン政権が崩壊に追い込まれたウォーター・ゲート事件を同時進行で見つめてきただけに、アメリカにおいてジャーナリズムが果たした役割と比べるところがあったのだろう。
「沖縄密約事件から30年たって、現在なにが問題かと言えば、いまだに隠すことをやめない私たちの政府機関、権力者たちの存在でありましょう。そういう意味では、これは30年前の事件ではなくて、現在の事件です」
筑紫はひとつ、息を継いだ。
「つまり、嘘をつきとおすということを、依然として政府や私たちが選んだ権力者はやり続けて、それが可能な国なんだという、これを非常に明白に照らしだしています。文書が公開されて、密約の存在が明らかになっても、まだそんなものはなかったと言い続けられる政府を、私たちはもっている。そのことをこの出来事は示していると思います。これでだれがいちばん被害を受けるかというと、結局は、国民なのです」
p272~
栗林がなにより部下の「いのち」を重んじたように、吉野も結果的には「事実」を語ることで、歴史への責任を果たそうとした。組織の論理を超えても守るべきものに殉じたという意味では、ふたりには通じるものがある。
なぜ、いまになって口を開いたのか---。(略)
p273~
「過去について忘却したり、(事実と)反対のことを立証したりして歴史を歪曲しようとすると、その国をつくる国民にはマイナスになることが大きいと思います」
歴史の目撃者でもある吉野には、嘘をつく国家は滅びるとの思いが刻まれている。
「過去の歴史を知っていても、ヒトラーのように過ちを犯すので、知らなかったらなお、そう思います」
国は沖縄返還の舞台裏についても、ありのままに認めるべきだと考えるか。そう問われると、素直に答えた。
「そう思いますね。もう認めうべきでしょう」
政府の姿勢を穏やかな口ぶりで、しかし真っ向から批判した。
p314~〈おわりに〉
沖縄密約を国は正式に認めていない。それどころか、1審で歴史的な判決が下された沖縄密約情報公開訴訟では控訴し、最終的にどう決着するかはわからない。
そして、この密約が結ばれた72年の沖縄返還を原点とする沖縄の基地問題はいまだ解決されていない。佐藤栄作首相が当時掲げた「核抜き、本土並み」というキャッチフレーズもまた、嘘だったことになる。
沖縄密約はいまなお、この国のかたちを映しだす鏡である。
最後に、吉野氏が法廷での証言を終えたあと、しみじみと語った言葉を記しておきたい。
「嘘をつく国家はいつか、滅びるものです」
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〈来栖の独白 2012/02/19 Sun.〉
『ふたつの嘘 沖縄密約』から長々と引用した。読みながら、小沢一郎さんの裁判が重なってならない。
小沢氏の「政治とカネ」強制起訴も、国と検察、そして政界が既得権益を守らんがためにでっち上げたものに他ならない。メディアを走狗としてフルに使った。
今月17日金曜日、東京地裁大善裁判長は、検察側証拠書類の大半を信用できないとして却下。しかし、楽観できない。小沢無罪を言い渡すことは、検審会の存在意義が問われることであるし、司法官僚の受けも決してよいはずはない、大善氏の将来を考えれば得点になるとは考えにくい。
いや、そのようなことよりも何よりも気になってならないのは、証拠却下されたのが「大半」であって、「全部」ではないということだ。池田光智被告の調書は採用されている。被告人を有罪とするに証拠は多くは要らぬ。1つあればよい。池田光智被告の1つによって有罪になれば(微罪で執行猶予でも)、その瞬間に(確定の瞬間に)小沢一郎さんの政治生命は断たれる。選挙権及び被選権が停止される。鈴木宗男氏がそうだ。「微罪でよい。執行猶予も付けよう」、大善氏は有罪の青写真を描いたうえで---小沢氏の息の根を止める手はずを整えて---大半の証拠を却下、身内の検察に「これからは気をつけなさいよ」と余裕でたしなめて見せたか。
振り返ってみれば、このようにして(特捜)事件は造られ、権力の側に好いように判決されてきた。
だが、私は希望を失いたくない。断じて失いたくない。ものごとの奥の真実を見、権力の悪巧みに気づいて声を上げる人がいる。その人たちの浄い「怒り」と「闘い」が、「祈り」が、この国と正しい人を命の瀬戸際で守ると信じたい。「希望は失望に終ることはない」(ロマ書5章5節)と信じたい。
*小沢氏 初公判 10月6日/大善文男裁判長=極めて保守的で予定調和的な判決ばかり出してきた2011-08-12
*小沢一郎氏 裁判/大善文男裁判長は将来が約束されたエリート判事 登石郁郎裁判長以上に体制寄り2011-10-06
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◆民主主義と無縁の人たち/小沢一郎氏裁判 調書却下に見る政界(党利党略)、メディア(有罪か無罪か)の反応2012-02-18 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
民主主義と無縁の人たち
田中良紹の「国会探検」2012年2月18日 01:53
小沢裁判で、裁判所から求められていた証拠の開示を拒否した検察について「民主主義とは無縁のところで育成されてきたのではないか」と書いたが、それは検察だけの話ではない。政治家にもメディアにも民主主義とは無縁の思考をする者がこの国にはいる。
小沢一郎氏の第14回公判で、東京地裁の大善文男裁判長は石川知裕衆議院議員ら元秘書の取り調べ段階での供述調書の大半を証拠採用しなかった。そして「強力な利益誘導があり、嘘の供述に導く危険性の高い取り調べだった」、「圧力をかける取り調べは、個人的なものではなく、組織的なものだったと疑われる」と東京地検特捜部の捜査手法を批判した。これまでの裁判経過をたどれば当然と思える判断である。
メディアは「これで小沢元代表有罪へのハードルは高くなった」とする一方、元秘書らの裁判では同じような理由で供述調書が証拠採用されなかったにも関わらず、三人の秘書全員が有罪判決を受けた事から、この判断が「無罪に直結するものではない」と解説した。
そして自民党や公明党からは「三人の秘書が有罪判決を受けており、政治的道義的責任を免れる事は出来ない」とか「国会に対する説明責任がある」とか「民主党の党内政局が注目される」とかの反応が出ている。
検察という行政権力が違法な捜査によって国民の代表を組織的に潰そうとした。それを司法が認めて行政権力を批判したというのがこの日の裁判である。普通の民主主義国家なら民主主義の根本に関わる問題として捉えるだろう。ところがこの国のメディアは小沢氏が有罪か無罪かにしか関心がなく、政界からは党利党略の反応しか出て来ない。それが民主主義を自称するこの国の姿である。
この事件はそもそも政権交代のかかった選挙直前に東京地検特捜部が野党第一党の代表、すなわち次の総理候補の公設第一秘書を逮捕した事から始まった。選挙直前の政界捜査は民主主義社会が決して許してはならない事である。国民の選択に行政権力が介入する事は国民主権に対する冒涜だからである。
この事件を見る私の出発点はそこにある。ところが政治家やメディアの反応はまるで違った。誰も民主主義に対する冒涜とは受け止めず、政界の「巨悪」とそれに切り込む「正義の検察」というお定まりの構図で捉えた。それはロッキード事件以来、国民の代表を「巨悪」と思い込ませたマインドコントロールがあるからである。
東京地検特捜部が狙う政治家はすべて「巨悪」と国民は思い込むのである。だから特捜部が立件できなければ我々が代わって「巨悪」を追い詰めてみせると考える阿呆が出てくる。その連中は犯罪を立証できなくとも「政治的道義的責任」をあげつらい、「説明責任」を追及して政治的に追い詰める方法を考える。相手は国民の代表なのにである。〈以下略〉
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◆『無法検察』小沢一郎氏裁判;証拠開示を地検が拒否/有罪にできなくともメディアを使い世論に断罪させる2012-02-09
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◆検察はメディアに「金丸悪玉」イメージを流させ/小沢一郎氏は「裁判で検察と徹底抗戦すべし」と進言した2012-01-13
田中良紹の「国会探検」 政治家の金銭感覚
強制起訴された小沢一郎氏の裁判でヤマ場とされた被告人質問が終った。法廷でのやり取りを報道で知る限り、検察官役の指定弁護士は何を聞き出したいのかが分からないほど同じ質問を繰り返し、検察が作り上げたストーリーを証明する事は出来なかった。
検察が起訴できないと判断したものを、新たな事実もないのに強制起訴したのだから当たり前と言えば当たり前である。もし検察が起訴していれば検察は捜査能力のなさを裁判で露呈する結果になったと私は思う。従って検察審査会の強制起訴は、検察にとって自らが打撃を受ける事なく小沢一郎氏を被告にし、政治的打撃を与える方法であった。
ところがこの裁判で証人となった取調べ検事は、証拠を改竄していた事を認めたため、強制起訴そのものの正当性が問われる事になった。語るに落ちるとはこの事である。いずれにせよこの事件を画策した側は「見込み」が外れた事によって収拾の仕方を考えざるを得なくなった。もはや有罪か無罪かではない。小沢氏の道義的?責任を追及するしかなくなった。
そう思って見ていると、権力の操り人形が思った通りの報道を始めた。小沢氏が法廷で「記憶にない」を繰り返した事を強調し、犯罪者がシラを切り通したという印象を国民に与える一方、有識者に「市民とかけ離れた異様な金銭感覚」などと言わせて小沢氏の「金権ぶり」を批判した。
しかし「記憶にない」ものは「記憶にない」と言うしかない。繰り返したのは検察官役の指定弁護士が同じ質問を何度も繰り返したからである。そして私は政治家の金銭感覚を問題にする「市民感覚」とやらに辟易とした。政治家に対して「庶民と同じ金銭感覚を持て」と要求する国民が世界中にいるだろうか。オバマやプーチンや胡錦濤は国民から庶民的金銭感覚を期待されているのか?
政治家の仕事は、国民が納めた税金を無駄にしないよう官僚を監督指導し、国民生活を上向かせる政策を考え、謀略渦巻く国際社会から国民を守る備えをする事である。そのため政治家は独自の情報網を構築し、絶えず情報を収集分析して対応策を講じなければならない。一人では出来ない。そのためには人と金が要る。金のない政治家は官僚の情報に頼るしかなく情報で官僚にコントロールされる。官僚主導の政治が続く原因の一つは、「政治とカネ」の批判を恐れて集金を自粛する政治家がいる事である。
今月から始まったアメリカ大統領選挙は集金能力の戦いである。多くの金を集めた者が大統領の座を射止める。オバマはヒラリーより金を集めたから大統領になれた。そう言うと「清貧」好きな日本のメディアは「オバマの金は個人献金だ」と大嘘を言う。オバマが集めたのは圧倒的に企業献金で、中でも金融機関からの献金で大統領になれた。オバマは150億円を越す巨額の資金を選挙に投入したが、目的は自分を多くの国民に知ってもらうためである。そうやって国民の心を一つにして未来に向かう。これがアメリカ大統領選挙でありアメリカ民主主義である。政治が市民の金銭感覚とかけ離れて一体何が悪いのか。(略)
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◆角栄氏と小沢一郎氏/角栄をやり、中曾根をやらなかった理由~有罪が作られる場所『検察を支配する悪魔』2011-11-04 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
『検察を支配する「悪魔」』田原総一朗氏と田中森一氏との対談
p37~ 角栄をやり、中曾根をやらなかった理由---田原
でも、ロッキード事件はできたじゃないですか。田中角栄は逮捕した。角栄は時の権力者ですよ。
僕はかつて雑誌『諸君!』に「田中角栄 ロッキード事件無罪論」を連載した。ロッキード事件に関しては『日本の政治 田中角栄・角栄以後』で振り返りましたが、今でも、ロッキード事件の裁判での田中角栄の無罪を信じている。
そもそもロッキード事件はアメリカから降って湧いたもので、今でもアメリカ謀略説が根強く囁かれている。僕は当時、“資源派財界人”と呼ばれていた中山素平(そへい)日本興業銀行相談役、松原宗一大同特殊鋼相談役、今里広記日本精工会長などから、「角栄はアメリカにやられた」という言葉を何度も聞かされた。中曾根康弘元総理や、亡くなった渡辺美智雄、後藤田正晴といった政治家からも、同様の見方を聞いた。
角栄は1974年の石油危機を見て、資源自立の政策を進めようとする。これが、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイルメジャーの逆鱗に触れた。
このアメリカ謀略説の真偽は別にしても、検察は当時の日米関係を考慮に入れて筋書きを立てている。結果、角栄は前総理であり、自民党の最大派閥を率いる権力者だったにもかかわらず検察に捕まった。
かたや対照的なのは中曾根康弘元総理。三菱重工CB事件でも最も高額の割り当てがあったと噂されているし、リクルート事件でも多額の未公開株を譲り受けたとされた。
彼は殖産住宅事件のときからずっと疑惑を取りざたされてきた。政界がらみの汚職事件の大半に名が挙がった、いわば疑獄事件の常連だ。しかし、中曽根元総理には結局、検察の手が及ばなかった。
角栄は逮捕されて、中曽根は逮捕されない。角栄と中曾根のどこが違うのですか。冤罪の角栄をやれたのだから、中曾根だってやれるはずだ。
それから亀井静香。許永中との黒い噂があれほど囁かれたのに無傷に終わった。なぜ、亀井には検察の手が伸びない?
p39~ ロッキードほど簡単な事件はなかった---田中
ロッキード事件に関わったわけではないので、詳しいことはわかりませんが、検察内部で先輩たちから聞くところによると、時の権力が全面的にバックアップしてくれたので、非常にやりやすかったそうです。
主任検事だった吉永祐介あたりに言わせると、「あんな簡単でやりやすい事件はなかった」---。
普通、大物政治家に絡む事件では、邪魔が入るものですが、それがないどころか、予算はふんだんにくれるわ、いろいろと便宜を図ってくれるわけです。三木武夫総理を筆頭に、政府が全面的に協力して、お膳立てしてくれた。
ロッキード事件では超法規的な措置がいくつもある。
アメリカに行って、贈賄側とされるロッキード社のコーチャン、クラッターから調書を取れた。相手はアメリカ人だから、法的な障害がたくさんある。裁判所だけでなく、外務省をはじめとする霞が関の官庁の協力が不可欠です。とりわけ、裁判所の助力がなくてはならない。
政府が裁判所や霞ヶ関を動かし、最高裁が向うの調書を証拠価値、証拠能力があるとする主張を法律的に認めてくれたばかりが、コーチャン、クラッターが何を喋っても、日本としては罪に問わないという超法規的な措置まで講じてくれた。贈賄側はすべてカット。こんな例外措置は現在の法体制では考えられません。弁護人の立場から言えば、非常に疑問の多い裁判でもあった。
「贈」が言っていることを検証しないで、前提とするわけだから。贈賄側が死んでいれば反対尋問はできないけれど、本来は、原則として仮に時効にかかろうが、贈賄側を一度、法廷に呼び出して供述が本当なのか検証するチャンスがある。
ところが、ロッキードではなし。それで真実が出るのかどうか、疑わしい限りです。しかも、贈賄側は一切処罰されないと保証されて、喋っている。その証言が果たして正しいか。大いに疑問がある。
それぐらい問題のある特別措置を当時の三木政権がやってくれるわけです。つまり、逮捕されたときの田中角栄は、既に権力の中枢にいなかったということなのでしょう。」
p80~ 第三章 絶対有罪が作られる場所
ロッキード事件の金銭授受は不自然---田原
ここからは、ロッキード事件の話をしたい。
ロッキード事件で田中角栄は、トライスター機を日本が購入するにあたって、ロッキード社から4回にわたって、丸紅を通じて計5億円の賄賂を受けと取ったとして、1983年10月に受託収賄罪で懲役四年、追徴金5億円の判決を受けましたね。
この4回あったとされる現金の受け渡し場所からしても、常識から考えておかしい。1回目は1973年8月10日午後2時20分頃で、丸紅の伊藤宏専務が松岡克浩の運転する車に乗り、英国大使館裏の道路で、田中の秘書、榎本敏夫に1億円入りの段ボール箱を渡した。2回目は同年10月12日午後2時30分頃、自宅に近い公衆電話ボックス前で、榎本に1億5000万円入りの段ボール箱を。3回目は翌年の1月21日午後4時30分頃、1億2500万円入りの段ボール箱がホテルオークラの駐車場で、伊藤から榎本に渡された。そして、同年3月1日午前8時頃、伊藤の自宅を訪れた榎本が、1億2500万円が入った段ボール箱を受け取ったとされている。
最後の伊藤の自宅での受け渡しはともかく、他の3回は、誰が見ても大金の受け渡し場所としては不自然です。とくに3回目のホテルオークラは、検察のでっちあげ虚構としか思えない。
伊藤の運転手だった松岡にインタビューしたところ、検察によって3回も受け渡し場所を変更させられたと言う。もともと松岡は、受け渡しに対して記憶はまったくなかったのですが、検事から伊藤の調書を見せられ、そんなこともあったかもしれないと、曖昧なまま検察の指示に従った。
検事が、最初、3回目の授受の場所として指定してきたのは、ホテルオークラの正面玄関です。松岡は検事の命令に添って、正面玄関前に止まっている2台の車の図を描いた。
でも考えてみれば、こんなところで1億2500万円入りの段ボール箱の積み下ろしなどするわけがない。正面玄関には、制服を着たボーイもいれば、客の出入りも激しい。おまけに、車寄せに2台車を止めて段ボール箱を運び込んだら、嫌でも人の目につく。
検察も実際にホテルオークラに行ってみて、それに気が付いたんでしょう。体調を崩して大蔵病院に入院していた松岡の元に検察事務官が訪ねてきて、「ホテルオークラの玄関前には、右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求めた。
それでも、まだ不自然だと考えたのでしょう。しばらくしたら、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関ではなく、1階の入り口の駐車場に変えさせられたと言います。
それだけならまだしも、おかしなことに、伊藤が描いた受け渡し場所も変更されていた。最初の検事調書では、伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いている。松岡の調書が5階の正面玄関から1階の宴会場前の駐車場に変更後、伊藤の検事調書も同様に変わっていた。
打ち合わせもまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で揃って同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えさせたと判断するしかありません。百歩譲って、そのような偶然が起りえたとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない。
この日、ホテルオークラの宴会場では、法務大臣や衆議院議長などを歴任した前尾繁三郎を激励する会が開かれていて、調書の授受の時刻には、数多くの政財界人、マスコミの人間がいたと思われる。顔見知りに会いかねない場所に、伊藤や田中の秘書、榎本が出かけていってカネをやり取りするのは、あまりにも不自然です。
しかも、この日の東京は記録的な大雪。調書が事実だとすれば、伊藤と田中の秘書が雪の降りしきる屋外駐車場で、30分以上立ち話をしていたことになる。しかし、誰の口からも、雪という言葉が一切出ていません。
万事がこんな調子で、榎本にインタビューしても、4回目の授受は検察がつくりあげたストーリーだと明言していました。
もっとも、丸紅から5億円受け取ったことに関して彼は否定しなかった。伊藤の自宅で、5億円を受け取ったと。それは、あくまでも丸紅からの政治献金、田中角栄が総理に就任した祝い金だと。だから、伊藤は、せいぜい罪に問われても、政治資金規正法だと踏んだ。そして、検察から責め立てられ、受けとったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめにも応じたのだと答えた。
つまり、検察は政治資金規正法ではなく、何があっても罪の重い受託収賄罪で田中角栄を起訴したかった。そのためにも、無理やりにでも授受の場所を仕立てる必要があったというわけでしょう。
p83~ 法務省に事前に送られる筋書き---田中
ロッキード事件のカネの受け渡し場所は、普通に考えておかしい。またそれを認めた裁判所も裁判所ですよ。ロッキード事件以来、ある意味、検察の正義はいびつになってしまった。
政界をバックにした大きな事件に発展しそうな場合、最初に、検察によってストーリーがつくられる。被疑者を調べずに周りだけ調べて、後は推測で筋を立てる。この時点では、ほとんど真実は把握できていないので、単なる推測に過ぎない。
でも、初めに組み立てた推測による筋書きが、検察の正義になってしまうのです。なぜ、そんなおかしなことになるかと言えば、政界や官界に波及する可能性がある事件の捜査については、法務省の刑事課長から刑事局長に、場合によっては、内閣の法務大臣にまであげて了解をもらわなければ着手できない決まりになっているからです。とくに特捜で扱う事件は、そのほとんどが国会の質問事項になるため、事前に法務省にその筋書きを送る。
いったん上にあげて、了承してもらったストーリー展開が狂ったら、どうなりますか?検察の組織自体が否定されますよ。事件を内偵していた特捜の検事がクビになるだけでなく、検察に対する国民の信頼もなくなる。
本当は長い目で見たら、途中で間違っていましたと認めるほうが国民の信頼につながる。それは理屈として特捜もわかっているけれど、検察という組織の保身のためには、ごり押しせざるを得ないのが現実です。
特捜の部長や上層部がなんぼ偉いといっても、一番事件の真相を知っているのは被疑者ですよ。その言い分をぜんぜん聞かず、ストーリーをどんどん組み立てる。確かに外部に秘密がまれたり、いろいろあるから、その方法が一番いいのかもしれないが、だったら途中で修正しなければいけない。
ところが、大きい事件はまず軌道修正しない。いや大きい事件になるほど修正できない。だから、特捜に捕まった人はみんな、後で検察のストーリー通りになり、冤罪をきせられたと不服を洩らす。僕を筆頭として、リクルート事件の江副浩正、KSD事件の村上正邦、鈴木宗男議員と連座した
外務省の佐藤優、村上ファンドの村上世彰(よしあき)、ライブドア事件の堀江貴文・・・全員、不満たらたらで検察のやり方を非難している。
これを特捜が謙虚に反省すればいいのですが、特捜はそんなことはまったく頭にない。「あのバカども、何を言っていやがるんだ」という驕りがあり、最初にストーリーありきの捜査法は一向に改善されません。
p85~ 尋問せずに事実関係に勝手に手を入れる---田中
とくに東京の特捜では、まずストーリーありきの捜査しかしない。被害者を加害者に仕立て上げてしまった平和相銀事件がいい例ですよ。
東京に来て驚いたのは、調書ひとつをとっても、上が介入する。調書作成段階で、副部長や主任の手が入ることも多く、筋書きと大幅に異なったり、筋書きを否定するような供述があると、ボツにされる。だから、検事たちも、尋問をするときから、検察の上層部が描いた筋書きに添う供述を、テクニックを弄して取っていく。
僕も手練手管を弄して自分の描いた筋書きに被疑者を誘導することはありましたよ。しかし、それは、あくまでも現場で捜査に携わっている人間だから許されることだと思う。捜査をしている現場の検事は、こりゃあ違うなと感じれば、軌道修正する。被疑者のナマの声を聞いて判断するので、自分の想定したストーリーが明らかに事実と違えば、それ以上はごり押しできない。人間、誰しも良心がありますから。
しかし東京では、尋問もしていない上役が事実関係に手を入れる。彼らは被疑者と接していないので容赦ない。被疑者が、これは検事の作文だよとよく非難しますが、故のないことではないと思った。恐ろしいと思いましたよ。冤罪をでっち上げることにもなりかねないので。
だから、僕は東京のやり方には従わなかった。大阪流で押し通した。上がなんぼ「俺の言う通りに直せ」といっても、「実際に尋問もしていない人の言うことなんか聞けるか」で、はねのけた。
p86~ 大物検事も認めた稚拙なつくりごと---田原
4回目の授受の場所を特定したのは誰か---ロッキード事件に関わった東京地検特捜部のある検事にこの質問をしたところ、彼は匿名を条件に「誰にも話したことはないが」と前置きして、次のように当時の心境を語っていた。
「ストーリーは検事が作ったのではなく、精神的にも肉体的にも追いつめられた被告の誰かが・・・カネを受け取ったことは自供するけれども・・・あとでお前はなぜ喋ったんだといわれたときのエクスキューズとして、日時と場所は嘘を言ったのじゃないか。
そして、それに検事が乗ってしまったのじゃないか、と思ったことはある。田中、榎本弁護団が、それで攻めてきたら危ないと、ものすごく怖かった」
この元検事の証言を、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問実現に奔走した堀田力元検事にぶつけると、「受け渡しはもともと不自然で子どもっぽいというか、素人っぽいというか。恐らく大金の授受などしたことがない人たちが考えたとしか思えない」と語っていました。
堀田さんは取り調べには直接タッチしていない。だからこそ言える、正直な感想なんでしょうけれど、どう考えても、あの受け渡し場所は稚拙なつくりごとだと認めていましたよ。
p88~ 検事は良心を捨てぬと出世せず---田中
検事なら誰だって田原さんが指摘したことは、わかっている。その通りですよ。田原さんがお書きになったロッキード事件やリクルート事件の不自然さは、担当検事だって捜査の段階から認識している。
ところが引くに引けない。引いたら検察庁を辞めなければいけなくなるから。だから、たとえ明白なでっち上げだと思われる“事実”についてマスコミが検察に質しても、それは違うと言う。検事ひとりひとりは事実とは異なるかもしれないと思っていても、検察という組織の一員としては、そう言わざるを得ないんですよね。上になればなるほど、本当のことは言えない。そういう意味では、法務省大臣官房長まで務めた堀田さんの発言は非常に重い。
特捜に来るまでは、検察の正義と検察官の正義の間にある矛盾に遭遇することは、ほとんどありません。地検の場合、扱うのは警察がつくっている事件だからです。警察の事件は、国の威信をかけてやる事件なんてまずない。いわゆる国策捜査は、みんな東京の特捜か大阪の特捜の担当です。
特捜に入って初めて検察の正義と検察官の正義は違うとひしひしと感じる。僕も東京地検特捜部に配属されて、特捜の怖さをつくづく知りました。
検察の正義はつくられた正義で、本当の正義ではない。リクルート事件然り、他の事件然り。検察は大義名分を立て、組織として押し通すだけです。
それは、ややもすれば、検察官の正義と相入れません。現場の検事は、最初は良心があるので事実を曲げてまで検察の筋書きに忠実であろうとする自分に良心の呵責を覚える。
しかし、波風を立てて検察の批判をする検事はほとんどいない。というのも、特捜に配属される検事はエリート。将来を嘱望されている。しかも、特捜にいるのは、2年、3年という短期間。その間辛抱すれば、次のポストに移って偉くなれる。
そこの切り替えですよ。良心を捨てて、我慢して出世するか。人としての正義に従い、人生を棒に振るか。たいていの検事は前者を選ぶ。2年、3年のことだから我慢できないことはないので。ただそれができないと僕のように嫌気がさして、辞めていくはめになるのです。
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◆検察を支配する「悪魔」 意図的なリークによって、有罪にできなくとも世論に断罪させようとする2010-01-26
検察を支配する「悪魔」 大衆迎合メディアが検察の暴走を許す---田原
マスコミを踊らすなんて、検察にとっては朝飯前なんですよね。
最近の事件で言えば、堀江貴文の事件。堀江は拘置所に入っているにもかかわらず、マスコミには堀江の情報が次々と出てきた。あれは検察がリークしたとしか考えられない。
最近はとくに意図的なリークによって世論を煽り、有罪にできなくとも、世論に断罪させて社会的責任を取らせようとする傾向が強くなったように思う。
情報操作によって世論を喚起した事件として思い出すのは、沖縄返還協定を巡って1972年に毎日新聞政治部記者、西山太吉と外務省の女性事務官が逮捕された外務省機密漏洩事件です。
西山記者が逮捕されたとき、「言論の弾圧だ」「知る権利の侵害だ」という非難が国民の間で上がった。
そこで、検察は起訴状に「西山は蓮見(女性事務官)とひそかに情を通じこれを利用し」という文言を盛り込み、批判をかわそうとした。この文言を入れたのは、のちに民主党の参議院議員になる佐藤道夫。
検察のこの目論見はまんまと成功、西山記者と女性事務官の不倫関係が表に出て、ふたりの関係に好奇の目が注がれ、西山記者は女を利用して国家機密を盗んだ悪い奴にされてしまった。
本来、あの事件は知る権利、報道の自由といった問題を徹底的に争う、いい機会だったのに、検察が起訴状に通常は触れることを避ける情状面をあえて入れて、男女問題にすり替えたために、世間の目が逸らされたわけです。
西山擁護を掲げ、あくまでも言論の自由のために戦うと決意していた毎日新聞には、西山記者の取材のやり方に抗議の電話が殺到、毎日新聞の不買運動も起きた。そのため、毎日は腰砕けになって、反論もできなかった。
さらに特筆すべきは、検察の情報操作によって、実はもっと大きな不正が覆い隠されたという事実です。『月刊現代』(2006年10月号)に掲載された、元外務省北米局長の吉野文六と鈴木宗男事件で連座した佐藤優の対談に次のような話が出てくる。吉野は西山事件が起きたときの、すなわち沖縄返還があったときの北米局長です。
その吉野によると、西山記者によって、沖縄返還にともない、日本が400万ドルの土地の復元費用を肩代わりするという密約が漏れて、それがクローズアップされたけれど、これは政府がアメリカと結んだ密約のごく一部にしか過ぎず、実際には沖縄協定では、その80倍の3億2000万ドルを日本がアメリカ側に支払うという密約があったというのです。
このカネは国際法上、日本に支払い義務がない。つまり、沖縄返還の真実とは、日本がアメリカに巨額のカネを払って沖縄を買い取ったに過ぎないということになる。
こうした重大な事実が、西山事件によって隠蔽されてしまった。考えようによっては、西山事件は、検察が、佐藤栄作政権の手先となってアメリカとの密約を隠蔽した事件だったとも受けとれるんです。
西山事件のようにワイドショー的なスキャンダルをクローズアップして事件の本質を覆い隠す手法を、最近とみに検察は使う。
鈴木宗男がいい例でしょう。鈴木がどのような容疑で逮捕されたのか、街を歩く人に聞いてもほとんどがわかっていない。あの北方領土の「ムネオハウス」でやられたのだとみんな、思いこんで
いるんですよ。しかし、実は北海道の「やまりん」という企業に関係する斡旋収賄罪。しかも、このカネは、ちゃんと政治資金報告書に記載されているものだった。
興味本位のスキャンダルは流しても、事の本質については取り上げようとしないメディアも悪い。いや、大衆迎合のメディアこそ、検察に暴走を許している張本人だといえるかもしれませんね。
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◆『運命の人』 『ふたつの嘘 沖縄密約』西山太吉記者と外務省女性事務官の機密漏洩事件/小沢一郎夫妻2012-01-30 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
◆沖縄返還密約を題材にした山崎豊子氏のドラマ『運命の人』(TBS系)に、「名誉を傷つけられた」2012-02-07