中日新聞 2017/9/19 Tue
[今を生きる~南無阿弥陀仏 ㊤]荒山 淳
二度とない時の中で 未来は現在にある
五十年も前のことである。三世代家族で生活していたころ、近くの映画館で「モスラ対ゴジラ」を上映するので、祖父に観に連れて行ってほしいと、せがんだことがあった。祖父は「わかった、よし行こう!」と、幼稚園児だった私の手をとって、連れて行ってくれた。その時の手の感触が、今でも、ふと私の掌に甦ってくることがある。
そして映画を観終わり、お寺に帰ったとき、兄が待っていた。小学生で帰りが少し遅かった兄は「僕も行きたかったなぁ」とポツリ呟いた。その時、当然祖父は「ああ、ごめん、ごめん、そりゃ行きたかったわなぁ、また今度一緒に行こうな」と、返答することだろうと想定していたら、返事は想定外。頭かきかき「ああ、ごめん、ごめん、悪かったなぁ」と眼に涙を一杯ためた兄に、頭を下げて「兄ちゃんも行きたかったわなぁ。それじゃあ、今から観に行こう」と、自分の時と同じように兄の手を取り、引き続いて二回も同じ映画を観に行くではないか。
その時の驚きと感動は、五十年以上経っても忘れることなく私の心の心襞(しんぴ)に、しっかりと刻み付けられている。
祖父の忌明(きめい)法要のとき父が、「どうしておじいさんは、『後でな』『また今度な』と言わなかったか。それは幼いとき、不慮の事故で、父親に死に別れとるからなんだ。そのときの悲しみを生きる力にして、いつ別れるとも知れん今を、出会った人と大事に生きようとしたんだと思う」と、聞かせてくれた。悲しみが生きる力になるとき、眼前の人の悲しみを見捨てない生き方がはじまるのだと教えてくれた。
想い出のなかに人間の尊さを遺してくれた祖父が亡くなったのは、私が大学三年のときだった。真っ白な壁に囲まれた病院の一室。人工呼吸器が気管に取り付けられ、規則的で無機質な音をたてていた。心電図の警戒音とともに、波形が一本になる。祖父は息を引き取った。祖父を囲み看取っていた家族は皆、声を殺して泣いた。泣きながら、止めどもなく涙が出たことを、忘れることができない。
祖父が息を引き取る瞬間を、「今」も鮮明に思い出す。あのとき二十歳だった私がなぜ、あんなにも泣いたのだろうか。これまで分からなかったが、「南無阿弥陀仏」と仏を念ずるとき、しみじみと感じられることがある。祖父はどんな時も、私を包んでくれた人だったから涙したのだ。
そんな祖父が「人間、どんな時も『さんかく』が大事だで」と話してくれたことがあった。人生の「さんかく」とは、「恥かく」「汗かく」「頭かく」である。
「恥かく」とは、身の縮まるくらい恥ずかしい思いを経験していくということである。人間の理性を超えて起こってくる恥ずかしいという思いは、この身を知らされた時の一番知りたくない感覚である。その事実を知らされながら生きなさいと、祖父が私に託してくれた言葉である。
恥ずかしいなか「汗をかく」とは、仏道を歩むとき、努力を惜しまず汗を流しなさいということであろう。越中富山で生まれた祖父は城端別院の脇寺、恵林寺で修行した。そこで師に出あい、生活を共にするなか、汗を流して学んだに違いない。その学びの中、悲しみに打ちひしがれる人々とともに仏教を学び、その学びの中、念仏の信を勤めるため、名古屋に荒山説教所(現恵林寺)を十八歳の時、建立した。この労苦を通じて「汗かく」ことの大切さを発見し、私に勧めてくれたのだ。
私が「今」感じる驚きと感動は、一緒に行けずに悪かったと「頭かく」祖父が、眼前の孫の悲しみに「ごめんなさい」と、頭を下げたことである。このことが憶(おも)い起こされたという事は、未来に感じるであろう驚きと感動も、「今」現在の行為が決定してくるという事になる。限りない未来は、既に現在の内容としてあるに違いない。未来は現在の中に胚胎しているのである。過去も未来も「今」二度とない時の中に、私を生かしてくるはたらきとして確かにある。「今」を生きた祖父は、死んではいなかったのである。
<筆者プロフィール> あらやま・じゅん
1961年、名古屋市生まれ。真宗大谷派名古屋教区恵林寺副住職。名古屋教区教化センター主幹。東本願寺楽僧。元名古屋大谷高、豊田大谷高講師。センターHPに執筆。
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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◇ [今を生きる~南無阿弥陀仏 ㊦]一念の心が自分救う 荒山 淳(中日新聞 2017/9/26)