中日新聞 2017/9/26 Tue
[今を生きる~南無阿弥陀仏 ㊦]荒山 淳
苦悩や悲しみの中で 一念の心が自分救う
仏法を高校生に語り、眼前の子らが了解するなら、誰が聞いても通ずる。高校生は仏法の試金石なのである。---曽我量深
私がまだ、恥かき汗かき、頭かきながら高校の教壇に立っていた時、忘れえぬ1人の生徒がいた。彼女との出会いが、冒頭のことばを胸に授業していた私自身を問う出来事となった。
彼女の腕は、ひどく傷ついていた。人間関係のストレス、進路問題など、人生に感じる苦しみや悲しみ、そして怒りなどがわき上がるとき、自分をおさえようと無意識に手首を切った。いわゆる「リストカット」である。高一の頃から始め、3年の春にはピークに達した。冬服から夏服に替わると、嫌でも判ってしまう。日に日に傷が増え、友達から「やめなさい」と言われたという。自らの体を痛めつける行為は、他人から見ると、とても痛々しい。教員の私も、彼女の苦しみを除くため「何とかしなければ」と、救ってあげたい思いに駆られた。しかし彼女のリストカットはとまらなかった。「他人に迷惑がかかるわけでもないし、親を傷つけるわけでもない。まして死ぬわけでもない。これぐらいは許される」と、その行為は続いた。
私が受け持っていたのは「宗教」、週に一度だけの授業である。仏教が伝えてきた人間観と世界観が、十代の子たちにどれほど伝わるのだろうかと自問自答していた。悩んだあげく「人と生まれて」をテーマに、「赤ちゃん このすばらしき 生命(いのち)」というNHKの番組ビデオを生徒と鑑賞することにした。赤ちゃんが誕生する前後2カ月間にわたって取材したものである。
出産一か月前、胎児は羊水を吸って肺を膨らまし、吐き出す「呼吸様運動(肺呼吸)」が活発になる。それは生まれる準備を、すでに胎内で行っているのだという。陣痛のシステムも解説された。胎児の脳から出された「生まれたい」という信号が、子から母へ伝達された時、陣痛が始まる。
母親が息む、唇が紫色になるまで何時間もかけて出産するシーンでは、まばたき一つせず、彼女は見入っていた。そして「お母さん、ごめんなさい」と、一人つぶやくように涙をひとしずく流したのであった。
「私にとってこの授業は、とても影響が大きかった。(中略)自分の命、その他全ての命のことや、煩悩のこと、人間らしさなど考えることができました。宗教という授業がなかったら、そんなことを一生考えずに生きていたと思います」(『こころに響く大切な言葉と私』真宗大谷派学校連合会刊)と、彼女は後に綴っている。
仏法に遇うとは、自分の人生が新しく始まることだ。人は、仏法に遇うと人生が変わるという。遇ったとき、はじめて自分が本当の意味において「生きていく」という、新たな時間が始まり、生まれてきたことが成就されてくる。
とかく仏法や念仏は、人の苦悩を消すための手だてと受け止められがちである。人は、苦しみや悩みを自分から遠ざけ、排除し、消すことが幸福なのだと考え、仏法や念仏をそのために利用しようとする。だが、仏法は人の苦悩を消すのではない。仏法は人を救うものである。苦悩する人を、まるごと救うのである。
淤泥(おでい)が無いと蓮華は咲かぬように、苦悩や悲しみの煩悩を潜(くぐ)らないと喜びも生まれてはこない。苦しみや悲しみがなくなった時、人はこの苦しみや悲しみを生きている自分をも喪失してしまうのである。
出遇った仏法が、「自分の命」と「その他全ての命のこと」を考えるための新しい時を始めさせる。始めさせるための外部条件「外縁(げえん)」は仏法。内部条件「内因(ないいん)」は、苦悩や悲しみの煩悩。もし、煩悩というものが内になかったら、人は何をたよりに新しい時間を生き始められるのだろうか。
仏法は不思議である。生徒の苦しみを取り除こうと、「何とかしなければ」と、苦しむ私をも救ってくれた。それは苦悩する生徒の悲しみと、先生の「何とかしなければ」と憶(おも)う一念の心に、「南無阿弥陀仏」が「南無せよ」と喚(よ)びかけたからだ。南無とは、煩悩の身のまま「ごめんなさい」と、頭が下がることである。苦しみ悲しみに発(おこ)る一念の心こそ、自分を救う因(たね)であったのだ。
週一度の授業を通じて、彼女に仏法が伝わったのだろうか。仏法が彼女の悲しみに寄り添ったのだろうか。彼女は文章の最後に「これから私は、人の命を預かる仕事をしていくけど、宗教の授業で習った言葉でもある『命尊し』をいつまでも心にやきつけていきたいと思います」と綴り、卒業後は看護の道に進んだ。(あらやま・じゅん=。真宗大谷派名古屋教区恵林寺副住職。名古屋教区教化センター主幹)
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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◇ [今を生きる~南無阿弥陀仏 ㊤]未来は現在の中に胚胎している 荒山 淳(中日新聞 2017/9/19)
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