7月29日23時31分配信 毎日新聞
分かりやすく仏教の教えを説いた著作などで知られる臨済宗龍源寺前住職、松原泰道(まつばら・たいどう)さんが29日、肺炎のため死去した。101歳だった。葬儀は8月3日午後1時、東京都港区三田5の9の23の同寺。喪主は長男で同寺住職の哲明(てつみょう)さん。
東京都生まれ、早稲田大卒。岐阜市の瑞龍寺専門僧堂で修行し、臨済宗妙心寺派教学部長、龍源寺住職などを歴任。宗派を超えてつじ説法を行う「南無の会」を創設し、会長を務めた。89年、仏教伝道文化賞受賞。明晰(めいせき)でユーモアのある説法で知られ、100歳を過ぎてからも執筆や講演をこなしていた。著書は、ベストセラー「般若心経入門」をはじめ、「禅語百選」「観音経入門」「仏教入門」など約150冊を数えた。
最終更新:7月30日0時9分
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〈来栖の独白〉
勝田事件に観る「更生」 2005,1,27
勝田清孝は、高校2年生だった昭和40年11月18日、引ったくり・窃盗等の罪科により逮捕、高校 退学処分、同年12月24日大阪府和泉少年院送致となりました。翌41年7月7日退院。
少年院退院後、更生を胸に勤め始めた会社で窃盗事件が数度起き、少年院上がりの勝田が疑われました。犯人検挙に至らず、白眼視のなか、耐え切れなくなって退職します。
過去を知る地元での勤めは苦しく、職を転々とする勝田でしたが、やっと希望を持って働ける職場を得ることが出来ました。D陸運という、奈良の運送会社でした。
この職場も結局は去ることになるのですが、勝田の手記からその経緯を見てみたいと思います。
手記『冥晦に潜みし日々』(創出版)より
結婚式
それに私は、将来への夢を、初めて持つことができたのです。というのも、その当時D陸運に傭車として出入りする人がいましたが、社長から仕事を委託されて多忙を極めていました。それを見て、自分も真面目に頑張っていれば信用がつき、独立した時に仕事がもらえるに違いないと思い、近い将来には小さいながらも運送屋を開くのだ、と心に堅く目標を抱いたのです。
過去に職場を転々とした私は、こうして、その日暮らし的な考え方ではなく、目標に向かって邁進する生き方を始めたのです。私にとっては初めて、意気に感じる人生でした。楽しかったし、やり甲斐も魅力もありました。昼休み以外は休まず、ひたすら精魂をこめて働きました。
烙印
その頃です。隣町の加茂町において、女子行員が何者かに殺されるという事件が起こったのでした。すると、少年院上がりの私を真っ先に容疑者と決めつけて、刑事が職場にまで尋ねて来たのです。
あの日は確か、私が東京から会社に帰り着いたときでした。まだガレージにトラックを入れ終わらないところへ社長が近寄って来たのです。
「ただいま」と、車窓から顔をのぞかせて挨拶する私に、いきなり社長が、
「勝田!おまえ人を殺したやろ!」
と言ったのです。しょっちゅう長距離を走っていた私は睡眠不足勝ちで運転することも度々あったので、まさか東京からの帰路で気づかずに人を跳ねたのではないか、と本気でそう思ったほどでした。
「今、刑事が二人来て、お前のことを調べて帰りよったぞ・・・」
私はこの時になって、加茂町で発生した殺人事件で刑事が来たことを知り、自分が疑われているのだと直感しました。社長の目は、私を犯人だと疑いを抱いているような目つきだったのです。
社長のその言葉を聞いて無性に腹が立ち「どこの刑事が来よったんや、名前は何という刑事や・・・」と、直ぐに警察へ怒鳴り込んでやろうと憤慨したのです。社長への信望はおろか、将来への夢も刑事によってぶちこわされたように思えたからです。
私の過去を、刑事は社長に、一切を暴露したのではないかという懸念が湧き起こり、実に業腹だったのです。
そして、「私達が来たことを本人には絶対に言わないで欲しい、と言うて刑事は帰りよったぞ」
と、ねめるように言う社長自身の口吻からしても、社長が私を犯人だと断定しているに違いないように私には感じとれたのでした。つまり、二人の刑事から「本人には言うな」と口止めされた社長にしてみれば「勝田が犯人だから、刑事が来たことを知れば彼は逃走するかもしれない」と、暗に言い含められたようなもので、私をいぶかしげに睨みつけたのも当然だと思えたのです。
これで信用はまったくなくなってしまったに違いないと思うと、充実した気力もいっぺんに抜けてしまい、自分の将来に強い危惧の念を抱かずにはいられない気持でした。長男が生まれ、さらに頑張らねばと自分に発破をかけていた時だけに、実に悲哀な思いをさせられました。よしんば刑事の使命であっても、他人の信用を失墜させたり、幸せを剥奪する権限は断じてないはずです。あまりにも人を侮り、慎重を欠いた無責任極まる捜査に、私は我慢なりません。
社長は単なる聞き込みだと気楽に聞いていたかも知れません。しかし、少年院上がりの引け目を引きずって生きていた私は、いつ過去を知られるかを、その不安の中で常に戦々恐々としているわけです。それを知らない刑事ではないはずです。ならばなぜもう少し慎重にやってくれないのか、と思うのです。また来る、とだけ言い残し、名前も明かさない刑事に調伏してやりたいほど憤怒を覚えました。
刑事
少年院上がりという過去を意識する私は、それゆえ人一倍に努力する気概は絶えず胸に秘めていました。でも正直言って、過去を背負って苦悩する者への世間の眼は冷たく、むしろ追い討ちをかけるようでした。少年院上がりのくせに公務員になるとは許せない、という態度を露骨に見せる人も一人や二人だけではありませんでした。常に自分の凶状を意識していなくてはならない精神の窮屈さから、ともすれば自分の過去を悔やむより、執念深く過去を思い出させる世間が憎くさえ思えるのでした。
それが自暴自棄を育て、人間不信を募らせては自己中心に物事を見る独善的な人間に、私をさせたのです。でも負け犬にはなりたくないという意識から、小心者と人から見破られないよう虚勢を張ってごまかしていたのですが、胸中は世間の重圧にあえいでいたのです。どうか、そのことは信じていただきたいのです。
浮かぬ日々を一人で悩み続けていた、そんなある日のこと、受付勤務に服する私の目前に突如として、また、刑事が現れたのでした。加茂町の殺人事件のことです。上司や同僚達と背中合わせに座る狭い事務所の受付に、二人の刑事は私を名指しでやってきたのです。
刑事が帰ったあと、誰もが不信の念を起こした目で自分を見ていました。二重にさらし者にされたようで耐えられない気持ちでした。
こんな屈辱を二度と受けたくないという思いで、非番となった翌朝、木津警察署へ抗議に行きました。しかし応対に出て来たのは、前日の刑事ではなく、制服姿の若い警察官でした。さんざん疑いの目を向けた後、刑事の不在を無愛想に答えるだけでした。それで私は、「消防署には二度と来ないよう刑事に伝えてほしい、必ず」と自分の名前を告げ、さらに「用があれば家の方へ来るように伝えてほしい」と念を押してお願いしたのでした。
なのに、その後、また刑事が職場に来たのでした。その時は、私は今にも殴りかからぬばかりの興奮の極限状態に達してしまったのです。そんな様子に刑事は何かを感じ取ったのか、ほんの一、二分で帰って行きましたが、若しその時、一言でも私を疑う言葉を言ったら、おそらく私は血迷って殴りかかっていただろうと思うのです。
そんなこともあったのです。
上記のような事情でD陸運を辞めることとなり、元々トラック運転手という職業を不安定であるとして嫌っていた父親や叔父の強い説得で消防署の採用試験を受け、合格しますが、過去の非行を周知の地元で、しかも公務員として働くことは、神経の細い清孝にとって、この上なく苦しいものでした。精神を病み、転落してゆくこのあたりの様子は、弁護人も控訴趣意書などに述べています。
ところで、妻子を少年に殺害された若い夫の発言ですが、今一度以下に転写し、ご一緒に考えて戴けたらと思います。
「少年の更生の可能性があるかどうかは本人を含め誰にも分からない。だが、更生すると判断して死刑にせず、もし再犯したら国や裁判官が責任をとるべきだ。その覚悟をもって判決を出してほしい」
人はみな、人との関わりの中で生きている。そのように私は思います。誰ひとり、独りで生きている人はいない。このことを松原泰道師は「障子のようなもの」と云われます。
障子の枠は、見たところ一つひとつの枠ですが、この枠をひとつくださいといって切り取ってしまったらどうなるでしょう。ばらばらになってしまいますね。ひとつの枠があるためには、前後左右の網の目のようにつながった枠があり、その中にひとつの目や枠ができている。ひとつの目や枠があるためには、まわりに無数の目や枠がなければなりません。互いに関連しあって世の中というものができている。
勝田のような人を見ますとき、私は真に厳しく困難なのは、少年院とか刑務所といった施設で矯正教育や刑を受けている期間ではなく、それを終えて社会へ出て行ってからの時間ではないかと思われてなりません。
上記「少年の更生の可能性」は、本人一人だけに有ったり無かったりするものではないように私には思えるのです。人は、白眼視や疎外の中たった一人で更生してゆく(ゆける)ように造られてはいない。かかわりの中で生きる、そんなふうに思うのです。
もしも・・・と、私は夢想しないではいられません。もしもあの時、刑事がD陸運へ現れなかったら。或いは、警察署へ内密に清孝一人を呼んで尋ねてくれていたら。もしも刑事がなおも消防署へまで訪ねてくるようなことがなかったら。
一人でもいい。もしも誰かが、清孝の荒涼とした風景に目を留め、渇いた声に聴いてくれていたら・・・。
逮捕直後に受けた警察官からの人間的な温かさに、一瞬にして溶かされた大量殺人犯勝田清孝の心だったのです。 (来栖宥子)
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