★貴乃花親方が戦う「真の敵」をモンゴル人横綱は理解できまい ★決戦前夜、貴乃花親方が笑顔に変わったワケ

2018-02-05 | 相撲・野球・・・など

貴乃花親方が戦う「真の敵」をモンゴル人横綱は理解できまい
2018/02/03 20:58 野々村直通(開星高校前野球部監督、教育評論家)
 「我、いまだ木鶏たりえず」
 大横綱、双葉山が69連勝で敗れたときの言葉である。木鶏(もっけい)とは木彫りの鶏である。普段は落ち着きなく動き回る鶏が何があっても微動だにしない様(さま)を木彫りに例えたものである。これは人として悟りを開いた境地を言う。
 双葉山はこの敗戦を自らの未熟さとして、この言葉で自戒したのである。何と見事な振る舞いであろうか。強さだけではなく、この崇高な精神性が双葉山を神格化せしめるのである。
 同じく昭和の大横綱、大鵬は戸田に破れ、連勝記録が途絶えた。しかし、この敗戦は実は「世紀の大誤審」と呼ばれる一番だったのだが、大鵬は「横綱が物言いのつくような相撲を取ったことが恥ずかしい」と自らを責めたのである。
 この大誤審がきっかけとなり、後にビデオ判定が導入される。日本中が大鵬に同情し、悲運の横綱として社会現象を巻き起こす。凡人であればこの国民的熱狂に便乗し、「私は勝っていた。誤審がなければ連勝記録はまだ続いていた。私は犠牲になった」と声高に叫び続けたことだろう。大鵬もまた、高潔な精神を備えていたのである。
 相撲の取り口で理想とされるのは「後(ご)の先(せん)」と呼ばれる。相手より遅れて立って攻めさせる。しかし、その後の攻防で先に立つ。これが横綱相撲と呼ばれた。しっかり相手を受け止めてから自分のペースに持ち込む。決して立ち合いで逃げたり、先制攻撃をしたりはしない。それは弱者の戦法である。横綱相撲が取れなくなった横綱は引退する。ここに大相撲の横綱としての矜持(きょうじ)がある。
 そもそも大相撲は神事である。天皇の前で取り組む「天覧相撲」は最高の名誉である。その最高位に位置する横綱は「四手(しで)」を垂らした「注連縄(しめなわ)」を腰に巻く。神の化身である。どんな身分の者であろうと横綱になれば帯刀が許された。取り組む前の仕切りでは水で口を漱(すす)ぎ、塩を撒(ま)く。土俵を神聖な場所として清めるためである。農耕民族の命である土地の中の邪悪な悪霊を追い出すために「四股(しこ)」を踏む。すべて神事に則って行われる儀式的格闘技である。
 今、相撲はインターナショナルなものになりつつあるが、それはあくまでも「SUMO」であって大相撲とは似て非なるものである。SUMOはスポーツであるのに対し、大相撲は神事である。このことを強く認識し、本来の伝統を堅持しようと真剣に取り組んでいるのは、貴乃花親方の他にその存在を見いだすことはできない。その全身全霊を傾ける姿には感銘を受ける。
 彼は言う。
 「大相撲の紋章には桜があしらわれています。桜は日本人の心の象徴で『大和心』を意味しています。だから大和心の正直さ、謙虚さ、勇敢さでもって大相撲に命懸けで取り組まなければなりません」
 相撲道をとことん極めようとする彼の生き方は、厳しい修行に打ち込む求道者にも似たものがある。
 昨今の大相撲を取り巻く事件や醜聞が日本中を席巻している。マスコミはおもしろおかしく報道し、相撲協会と貴乃花親方との対立、不和を煽っている。しかし、私見ではあるが、これは貴乃花親方と相撲協会との確執ではなく、対白鵬に向けられた「追放儀式」と思えてならない。
 前段で述べてきた大相撲の神聖性や格式に於(お)いて、その欠片(かけら)も見られない白鵬の言動に業を煮やした貴乃花親方が仕掛けた大相撲維新であり、復古戦である。白鵬は日本の文化と伝統を内在する大相撲に於ける最高位たる横綱には不適格者である。遊牧民族のモンゴル人は「力こそ正義である」と信じて疑わない。厳しい大自然の中でそれと対峙(たいじ)し、闘い続ける力を持つ者が最も立派であり、尊敬される。最も評価されるのは「力」であり、年齢や階層には重きを置かない。
 白鵬は、横綱の品格とは何かと問われ、「勝つことが品格だ」と答えている。負けた一番について「小さな子どもでも分かる判定ミスだ」と嘘ぶく。直近の例では、敗れた直後の土俵で、実は「待った」だったと手を挙げて抗議し、土俵に上がろうとしなかった。千秋楽の優勝インタビューでは観衆に萬歳(ばんざい)三唱を強要する。このような下劣な言動は何なのか。まるで「傍若無人の独裁横綱」である。大相撲は日本国籍を有しないと親方にはなれない。しかし、彼はモンゴル籍のままで自分だけは親方になれる特例を求めていたという。やりたい放題である。
 これは妄想だが、モンゴル出身力士の中で唯一、思い通りにならない貴乃花部屋の貴ノ岩が日馬富士に殴られたのも、実は白鵬が黒幕だったのではないか。照ノ富士は致命的なケガを膝に負っているにもかかわらず、正座を強要されたという。あの鳥取の夜、貴ノ岩が殴られたのは、説教の度を超えた白鵬の命令を素直に受け入れなかったからではないか、とさえ思えてくる。繰り返すが、これはあくまで筆者の妄想である。
 大和民族は大自然と共生することを目的にそれを徳とし、この自然界のありとあらゆるものを神として崇(あが)め、拝み、その恵(めぐみ)に感謝し、貝塚を作り、その小さな生命(いのち)を頂いたことにも慰霊する。この気高き精神の輝きは、自然界を勝手に食い散らかしてきた他の民族には到底理解できないだろう。
 貴乃花親方が真に戦う相手は、相撲協会ではなく、その地位や名誉でもなく、ただ相撲道を汚す許し難い横綱に対してのものなのである。
<筆者プロフィール>野々村直通
 昭和26(1951)年、生まれ。広島大学教育学部卒。島根県の開星高校硬式野球部を監督として計9回、甲子園へと導く。「末代までの恥」発言で辞任したが、嘆願の署名が集まり復帰した。平成24年に定年退職し、現在は画家、教育評論家として活動している。著書に「やくざ監督と呼ばれて」(白夜書房)、共著に「にっぽん玉砕道」(産経新聞出版)など。
  野々村直通|公式ウェブサイト

 ◎上記事は[IRONNA]からの転載・引用です
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決戦前夜、貴乃花親方が笑顔に変わったワケ
 2018/02/03 20:55 小林信也(作家、スポーツライター)
 任期満了に伴う日本相撲協会の理事候補選挙は、貴乃花親方が得票2票で落選した。
 理事定数10に対して11人が立候補。1人だけ落選する選挙は101人の年寄(親方)による無記名選挙で行われた。当選した理事は3月、協会の最高決議機関である評議員会の選任決議を経て正式に就任する。今回は貴乃花親方が理事を解任され、もし選挙で当選しても評議員会が「認めない可能性がある」とけん制された中で行われた。そのこともあって、貴乃花一門からは一門の総帥である貴乃花親方だけでなく、阿武松親方も立候補した。阿武松親方は無事当選し、一門の理事枠は一つ確保した形となった。
 選挙前に開かれた貴乃花一門の会合で、「今回は立候補を自粛し、2年間待つ方が賢明ではないか」との声も上がったが、貴乃花親方はこれを制して立候補の決意を表明。「みなさんは阿武松親方に投票してほしい。自分は一票で構わない」と発言し、当落にこだわらない姿勢を明かした。その前後から、貴乃花親方の表情はかなり清々(すがすが)しいものに変わり、テレビでも笑顔の貴乃花親方が見られるようになった。

   
   十両昇進が決まった貴公俊の会見に同席し、 笑顔を見せる貴乃花親方=2018年1月31日、両国国技館
 弟子の貴公俊(たかよしとし)の十両昇進会見に同席したときの笑顔は、慶事ゆえに当然といえば当然だ。しかし、昨年末の貴景勝の小結昇進会見には姿を見せておらず、心境と状況の変化もうかがえる。立候補にあたってブログを更新した貴乃花親方は、「大相撲は誰のものか」というメッセージを発信し、かなりの共感を得たとも報じられている。無言を貫いていた時期には「何を考えているのか分からない」と周囲をやきもきさせる場面もあったが、ようやく本人の思いが語られたのである。
 理事当選は「ほぼ絶望的」と見られた中で、あえて立候補した真意は何だったのだろうか。私見だが、二つの理由を挙げたい。一つは、選挙権を持つ101人の親方に対する痛烈な問いかけだ。
 2010年の理事候補選で貴乃花親方は大方の予想を覆して当選した。後に「貴の乱」と呼ばれたが、これは一門の縛りを越えて、一部の親方が自らの意志で貴乃花親方に投票した結果だ。無記名投票による選挙なのだから、大方の予想を覆す結果になることは十分有り得る。
 ただ、貴乃花親方がブログで「もっと自由に議論できる協会に」と提言したのはこの辺りを意味するのだろう。だが、他の一門の引き締めが一段と強かった今回は、貴乃花親方自身、当選に足る得票は期待していなかったに違いない。それでも、貴乃花親方が立候補したことで、他の親方にとっては「自分たちの権益を守るような動きばかりで良いのか」と自問自答する機会になったはずである。言い換えば、その問いかけこそが、貴乃花親方が立候補した本当の意味であり、目的ではなかっただろうか。
 貴乃花親方の得票はわずか2票。これは、貴乃花親方が政治的な動きや裏工作をしなかった表れと見ることもできるだろう。「清々しい笑顔の裏には、裏取引が成立した」という勝算があったのではなく、自分の進むべき道が改めて見えた。そのことを晴れやかに示したのである。
 貴乃花親方はブログの中で、下記のように綴っている。
「改革するのではないのです。古き良きものを残すために、時代に順応させながら残すのです」
「相撲は競技であると同時に日本の文化でもあります。つまり我々は文化の守り人であるということも忘れてはなりません」
 相撲協会が公益財団法人である以上、理事が選挙で選ばれるのは当然である。一方で、文化を重んじるのであれば、投票や政治的な駆け引きは必ずしも馴染(なじ)まない。その道の継承者、次代のリーダーは自ずと決まって行くのが、歌舞伎であれ、華道や茶道の家元であれ、伝統芸能や文化の流れである。貴乃花親方も、北の湖前理事長とはそういった思いや使命感を共有していたのではないだろうか。
 一門内での「談合」も、今は権益を守るための策謀のように語られるが、利権を他に渡したくないためだけの慣習ではなかっただろう。文化芸能の世界は、達人や名人に対する崇敬の念が基本にある。
 はっきり感じるのは、貴乃花親方が自分の利益のために協会の要職に就くつもりはなかったという事実である。相撲を取った経験のない日本人が増えている。力士になりたいと思う少年が、今どれほどいるのだろう。大相撲を取り巻くあまりに厳しい現実と切実への危機感。このままでは入門者がいなくなり、興行だって立ち行かなくなる。もはや大相撲は「絶滅危惧種のような存在」になっていると、貴乃花親方は認識し、他の親方も薄々感じている。だが、そうした危機感も組織を変革するうねりにはならなかった。
 北の湖理事長の右腕として、吉本新喜劇の舞台に立ってまで大相撲のPRをし、それが「スー女(相撲女子)」ブームを生み出したと言われる貴乃花親方。次の2年間は、進境著しい4人の関取を持つ親方として土俵を沸かせる仕事もできる。今回の落選で貴乃花親方が失うものは決して大きくない。
<筆者プロフィール>小林信也
 作家・スポーツライター。1956年(昭和31年)、新潟県長岡市生まれ。慶應義塾大学法学部卒。高校までは野球部で投手、大学ではフリスビーのパイオニアとして国内外で活躍。大学在学中から原稿執筆を始め、雑誌「ポパイ」「ナンバー」編集部を経て独立。40代半ばから武術家・宇城憲治師範に師事し心技体の核心を学ぶ。中学硬式野球チーム「東京武蔵野シニア」の監督も務める。著書に『「野球」の真髄 なぜこのゲームに魅せられるのか』 (集英社新書)など多数。

 ◎上記事は[IRONNA]からの転載・引用です
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